永遠(とわ)の夢  1






 街灯の明かりがあるとはいえ、深い暗闇が支配する夜――。



 ザァ、ザァと大きな音をたてて、雨は降っていた。
 昼間は少ないが、それでも、人が途絶えることのない通りは、今は人の影すら見当たらない。
 それもその筈で、既に日付が変わってしまってから、数時間が経つ。
 もう少しすれば朝日が昇り、再び人が行き交うようになるだろうが、それまであと数時間ある。
 それまでは、人ではない者たちが、世界の支配者だ。
 朝日が昇る、ほんの少し前まで。
 それを、多くの人間は知らない。
 知っているのは、闇の眷属と、彼らを狩るハンター、そして、闇の眷属の伴侶たちぐらいだろう。
「………人…?」
 青年の呟きは、雨の音によって掻き消された。
 気配を殺しながら傘を差して歩いていた亜麻色の髪をした青年は、うずくまるようにアスファルトの上で横たわっている少年に首を傾げる。
 このまま見て見ぬふりをして、少年を捨て置くことは青年にとって簡単だ。
 だが、なぜかこのまま見捨てる気になれなかった。
 いつもなら、迷惑なことに巻き込まれたくないと、厄介ごとは放置しておくのに、今日に限っては、そんなことを考えることなく、青年はアメジストの眸で少年を見下ろす――。
「……どうしたの…?」
 意識があるのか、横たわりながらも自分を睨み付ける少年に、青年は静かに問いかける。
「……あんたに…関係ないっ」
 息も絶え絶えに答えながらも、青年を睨み付けている眸は、力強い意思を宿していた。
 それに、なぜか嬉しさがこみ上げる。
「帰る家があるなら、このまま見捨てていくけど、帰る家がないなら、拾ってあげるよ」
「……うるさい…っ」
 僅かな間を空けて返されたその言葉に、青年はしゃがんで、少年の顔を覗き込む。
「帰る家がないんだね。なら、拾ってあげる」
 もし、帰る家があるのなら、少年ならきっと、帰る家はきちんとあると、そう告げているはずだ。
 だが、返ってきた答えは全く違うもので、青年は、少年には帰る家がないのだと、すぐさま悟った。
「あんたのっ――」
「早くその怪我を治療しないと、ここで死んじゃうよ。良いの?」
 自分の言葉を拒否しようとした少年の言葉を、青年は素早く遮ると、暗闇で見えないはずの少年の傷を指差す。
 全身くまなく傷を負っている少年は、すぐさま治療を施さなければ、少年の命を奪いかねないほどの深い怪我を腹に負っていた。
 暗闇で腹の怪我が見えないと高を括っていた少年は、見えるはずのない怪我を青年に指摘され、目を瞠る。
「なんで…っ」
「匂いだよ。君の体から、血の臭いが充満している。雨で消せないほど、強い匂いだ」
 軽い手当は施しているのか、腹から血が流れている様子はない。
 けれど、その体から発せられる匂いに、青年は少年が傷を負っていることに気がついた。
 明らかに足や腕に負っている傷から漂ってくるとは思えないほどの、強烈な血の匂い――。
 強烈な血の匂いと、横たわりながらも少年が腹を庇っている様子で、青年はすぐに少年がどこに怪我を負っているのか分かった。
 両腕で庇っているため怪我の状態は窺えないが、これ以上ないというほど血の匂いの濃さに、少年の状態が危険なことだけは分かる。
 例え手当てしているとはいえ、この雨だ。
 もうほとんど残っていないだろう少年の体力を奪うには十分で、手当てしている箇所もこのまま雨に濡れ続ければ、悪化は免れない。
 最悪命を落としかねない状況に、流石に少年自身も今自らが置かれている状況に気がついていた。
「………っ」
「今ここで、僕に拾われて傷の手当てをするか、僕の手を拒絶して、ここでの垂れ死ぬか。選択できるのは2つに1つだけだ」
 どうするかと問いかけた青年に、少年は奥歯をギリっと噛み締める。
 こんなところで、死ぬわけにはいかない。
 けれど、いけ好かない目の前の男に、拾われるのもまた、少年はご免だった。
 だが――。
 目の前の男の手を取らなければ、確実に死が訪れることを、少年はどこかで分かっていた。
「………あんたの、名前は…?」
「キラ」
「……キラ、俺は、まだ…死ねない。だから」
 少年には、やり残したことがあった。
 それを終わらせる日が来るのかどうか分からないが、それでも、今ここで死ぬことなど、少年にはできなかった。
 少年の家族を奪った、一族を根絶やしにするまでは。


 ――あんたに、拾われてやるっ。


 決死の覚悟で告げただろうその言葉に、青年――キラは、口元に笑みを浮かべる。
「君の名前は?」
「シン・アスカ」
 シンと名乗った少年に満足そうに頷いたキラは、すぐに携帯を取りだし、どこかへと電話をかけた。
「僕1人じゃ、君を家まで運べないから、少し待って」
 シンと似たような体格をしているキラが、例え本当に同じぐらいの体格だったとしても、怪我を負っているシンを背負って運ぶなど、どう考えても無理だ。
 誰かを呼び出して、自分の代わりに運んで貰うのだろうかと考えたが、こんな真夜中に協力してくれる人がいるとはシンには思えない。
 普通の人なら既に寝ているだろう時間帯に、電話で叩き起こされた挙げ句、怪我人を運ぶのを手伝えとそう告げられれば、誰もが救急車を呼べと告げるだろう。
 だが、救急車を呼ぶとキラが告げれば、例え死ぬことになろうとも、絶対に救急車は呼ぶなとシンは言うつもりだった。
 どこでこんな傷を負ったのかと尋ねられた時、シンは告げるべき答えを持っていなかった。
 記憶を持っていないなどということではなく、例え真実を告げたとしても、笑われるか、逆に嘘をつくなと怒られるかのどちらかだろう。
 電話越しの会話に全神経を集中させていたシンは、すぐに体に込められていた力を抜いた。
「――レイ、僕。あのね、子猫を1匹見つけたんだ。……そう。1人じゃ運べないから、車を回してくれる?うん、お願い。……場所は――」
 子猫と例えられたシンは憤るが、それを言葉にすることはなかった。
 否、すでに言葉にする気力すら、シンには残されていなかった。
 一度抜けてしまった気力に、シンの意識は徐々に薄れていく。
 懸命に意識を保とうと頑張っているシンに、キラは楽しげにクスクスと笑う。
「寝ても良いよ。君が寝ている間に、きちんと治療はしてあげるから」
 ゆっくりと伸ばした手を、雨で濡れたシンの頬へと添える。
「お休み、シン――」
 優しく告げられたその言葉に、シンは意識を手放した。
「んっ?ああ、こっちのこと。………子猫?真っ黒で、とても警戒心が強い子だよ。そう……。赤い瞳が印象的な、ハンターの子猫だ」
 頬へと添えていた手を、シンのネックレスへと伸ばす。
 ネックレスの先にある、真っ赤な石が嵌め込まれている十字架を、形を確かめるように指でなぞっていたキラは、突然立ち上がるなり振り返った。
「随分と早かったね、レイ」
 民家の屋根を見上げながら携帯をしまったキラは、ブロンドの髪の少年へと微笑む。
 レイと呼ばれた少年は民家の屋根の上から、瞬きする一瞬の間に、キラのすぐ隣に移動した。
 普通の人間ならばその動きを追うことはできないだろう素早さに、キラは驚く素振りすら見せず、片手を差し出す。
「携帯は、水に濡らしちゃいけないよ」
 無言のまま、僅かに濡れた、キラとは色違いの同じ方の携帯を、レイは差し出された手へと載せる。
 受け取った携帯を雨に濡れないようにキラはしまった。
「ハンターの子猫というのは……」
「この子だよ。シンって言うんだ」
 視線をシンに向けながら告げれば、レイは無言のまま、シンを肩へと担いだ。
 まだ少年とはいえ、それなりの重さがあるだろうシンを軽々と担いだレイにキラは感心する。
 その気になれば、キラもまたシンぐらい体格の人ならば担ぐぐらいはできるだろうが、レイのように、軽々とまではいかない。
「行きましょうか」
「そうだね」
 雨に濡れるのも構わず、傘を折り畳んだキラは、先ほどのレイと同じように、たった一瞬でその場から姿を消した。
 後に残ったのは、僅かな血の臭いと、雨の音だけだった……――。






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