暁の月 5  『契約』






 笑っている。
 意地悪く。
 彼がそんな笑みをすることがあったのかとさえ思うほど酷く緊張する笑みは、どこまでも残酷で、そして、どこまでも優しかった。
 まるで全てを包んでしまうぐらいの優しさは、慈しみのそれとどこか似ている。
「それで、用事って何?」
 忙しいキラを呼び止め、2人っきりで話をしたいと言ったのはレイ。
 それにすぐさまキラが頷いたのは予想の範囲内だったが、すぐに席を設けた行動力にレイは驚かされた。
 だからこそ議長であるデュランダルから信頼されているのだろうか。
「シンのことです」
 ミネルバの進水式があった日から、シンの様子がどこかおかしい。
 数日経てば元に戻るだろうと楽観視していたレイは、それが間違いだとようやく昨日気づいた。
 現にミネルバの進水式が終わってから数日が経つというのに、様子が戻るところか、日に日に悪化しつつある。
 同僚としても、様子がおかしいシンを見過ごすことはレイにはできなかった。
「そんなこと。それで、何?」
 そんなことと言って片づけたキラを、レイは睨み付ける。
 どれほど冷たくあしらわれようと、シンはずっとキラだけを見続けてきた。
 キラの言葉が全てで、下された命令は全て受け入れてきた。
 キラ以外の何者も必要ないと拒絶してきたシンを、たった一言で片づけてしまったキラを、レイは信じられなかった。
「そんなこと?よく、そんな台詞が言えますね」
「言えるよ。だってシンは、僕のものだもの。例え君が、どれほどシンを愛していようと、シンは僕以外の言葉は信じない」
 ギクリと体を強張らせたレイを、面白そうにキラは眺める。
 互いを見ることができるように向かい合って座っているせいで、それが良く分かる。
「悔しい?シンが僕しか見ていないことが」
 より一層睨み付ける眼差しが強くなる。
 それがキラには楽しくて仕方なかった。
「どれだけ君が欲しがっても、シンはあげないよ。あれは、僕の大切な道具なんだもの」
「あなたは、シンを道具としてでしか見ていないのか?」
「もちろんだよ。道具として使えると分かったから、拾ったんだから」
 クスクスと、愉快だと言わんばかりに声を立ててキラは笑う。
 初めてシンを見つけたとき、ただ寂しそうな子どもにしか見えなかった。
 最初は拾うつもりなど全くなかった。
 ただ何気なく話しかけてみれば、意外にも子どもが使えることが分かり、だからこそキラは、シンへと手を差し伸べた。
 望みのものを手に入れるために、利用できると分かったからこそ。
 そうでなければ、子どもなど拾わない。
「あなたは……<」
 怒りをあらわにしたレイは、次の瞬間、背筋を凍らせた。
「僕が怖い、レイ?」
 穏やかな声に、レイは恐怖を感じずにはいられなかった。
 体が恐怖で震え出さないようにするのが精一杯で、声を出すことができない。
 そんなレイを、鮮やかな笑みを浮かべながら、キラは嘲笑う。
 楽しそうに。
 それが、さらなる恐怖をレイに植え付けた。
「それで良いんだよ、君たちはね」
 椅子から立ち上がったキラは、向かい側に座るレイの頬へと手を伸ばす。
「だから、僕の邪魔をしてはいけないよ、レイ。邪魔をするようなら、例え君でも許さない」
 レイの頬を両手で包み込んだキラは、ゆっくりとその顔を覗き込む。
 顔を覗き込まれたレイは、その時始めて間近でキラの眸を見た。
「あなたは、一体何を考えているんですか?」
 はっきりと眸に刻まれた、憎悪と狂気。
 それが何を意味しているのかレイには分からない。
 分からないからこそ、レイは知りたかった。
 それはまるで、あらゆる災いが詰まったパンドラの箱――。
 好奇心に負けた人間が、パンドラの箱を開けてしまったために、地上に厄災が降りかかったという話は有名だ。
 その話を始めて聞いた時、禁断の箱だと分かっていながら開けるなど馬鹿のすることだと一蹴したが、今なら禁断の箱を開けた人間の気持ちが、レイは分かるような気がした。
「欲しいものがあるんだ」
「欲しい……もの…?」
「そう。どんなに願っても、あれはもうこの手にはないから。だから、僕は奪う」
 一度は手にした、とても、とても大切なもの。
 だがそれは、いつの間にか掌からすり抜けてしまった。
 すでに自分のものではなくなってしまったそれを、再び手に入れるために。
「もしも協力してくれると言うのなら、シンは君にあげるよ、レイ」
「なぜ……?」
「なぜ?そうだね……強いて言うなら、君はどこか僕と似ているからかな?」
「似ている?私と、あなたが?」
「そう。例えば、他人から奪っても、愛する人を手に入れたいところとか」
 他人のものだと分かっていても、手に入れずにはいられない。
 それによって誰かが不幸になるかもしれないと分かっていても。
「!?」
「それで、どうするの?」
 協力するか、それとも敵対するか。
 与えられた選択肢は、2つだけ。
 そのどちらも選ばないという選択はなかった。
 敵対したとしても、きっとレイは、キラから奪うことになるとも、シンをものにしようとするから。
 例えキラに惨敗すると分かっていても、シンを手に入れられないと分かっていても、一度敵対すると決めたレイが、それを覆すことは、レイの性格が許さない。
 つまり一度味方につけてしまえば、決してレイは裏切れないということだ。
 自分なしでは生きていけないようにしてしまったために、シンはいつ壊れてしまうか分からない。
 何があっても裏切らないシンは安心できる存在とはいえ、いつ壊れるか分からない不安さがある。
 それよりは、壊れにくいレイを共犯者とした方が安心できるというものだ。
 例え、裏切る可能性が幾分か残っていようが。
 それに、自分の手元にはシンがいる。
 レイが愛してやまない存在が。
 シンが壊れない限り、味方になったレイは裏切れない。
「あなたが欲しいと望むものは、何ですか?」
「君たちザフトの軍人が、尊敬してやまない人」
「まさか…………」
「かつてクルーゼ隊でさえ苦戦したストライクを落とした功績によりネビュラ勲章を授与され、特務隊へ転属した後、ラクス・クラインと共に反逆者となり、ヤキン・ドゥーエ戦においてプラントを守ったアスラン・ザラ、その人」
 ザフトの軍人にとって、アスラン・ザラという名は自分たちの誇りであると同時に、尊敬してやまない存在だ。
 レイはもちろん、シンやルナマリアたちにとっても、それは変わらない。
「……シンを、下さい。シンであれば、どんな状態であっても手に入れたい」
 力強いその言葉に、キラは満足そうに笑う。
「それは、壊れたシンでも良いということ?」
「はい。でも、今はまだ」
 壊れたシンを見たくはない。
 そんなレイの気持ちを、すぐさまキラは悟る。
「良いよ、それは。終わったら、シンは君のものだ。シンが拒絶するようなことがあったら、壊してあげる」


 契約は、交わされた。






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