うたかた  Z



 瞬く間に時間が流れていく。
 慣れない準備に手間取っていたスザクは、ようやく訪れた束の間の休息にゆっくりと息を吐き出して、ルルーシュに全く連絡していなかったことに気づいて慌てた。
 処刑するはずだった藤堂をゼロによって強奪されたその日、ロイドから連絡をもらったスザクは、その翌日から休む暇もなく慌ただしく動き回っていた。十分な睡眠時間さえ得られない慌ただしい日々に、しかし充実感はあった。
 これが終われば、望みにまた一歩近づくと。
 あれから何日も経っていたこともあり、今さら電話をかけるのは気が引けたスザクは、上司であるロイドに電話をして、即座に外出許可をもぎ取った。



 電気も付けずに薄暗いリビングの椅子に座りながら、ルルーシュはひとり冷ややかな目つきをしていた。身じろぎすらせず、静かに時間だけが流れていく。まるで精巧にできた人形のようなルルーシュは、玄関に続く廊下に明かりが点き、リビングの扉が静かに開くと、人の顔を取り戻した。
「お兄様?」
 車椅子をゆっくりと引きながら現れたナナリーに、ルルーシュは小さく笑う。
「お帰り、ナナリー」
「ただいま帰りました、お兄様」
「必要なものは買えたかい?」
 メイドである咲世子と共に買い物に出かけて、帰ってきたばかりのナナリーにどうだったとルルーシュは尋ねる。
 本当は付き添って上げたかったが、体調が優れないからと咲世子に変わってもらった。寂しそうなナナリーにちくりと胸が痛んだが、今の気分のままナナリーと買い物に行くことはどうしてもできなかった。
 出かけたときよりも明るい顔色のナナリーに、咲世子に頼んで送り出して良かったとほっとする。
「はい。咲世子さんが色々と選んでくださって」
「それは良かった」
 そっとナナリーの髪を梳きながら、ルルーシュは顔を上げる。
 ナナリーと共に買い物に出かけていた咲世子が遅れて、リビングへと姿を見せた。薄暗いリビングに電気も付けずにいるふたりに息を呑んだ咲世子に微笑みながら、ルルーシュは唇に左手の人差し指を当てる。
 思わず驚いた咲世子だったが、ルルーシュのその行動になにも言わずに、ナナリーに気づかれないようにそっとリビングの明かりを点けた。
「お帰りなさい、咲世子さん」
「ただいま帰りました、ルルーシュ様」
 両手に抱えていた荷物をテーブルの上へと置き、中身を仕分けする咲世子をルルーシュは手伝う。
 ナナリーはひとり自室へと戻り、買ったばかりの荷物を部屋に置きに行っている間に、来客を知らせるブザーが鳴った。
「誰だろう?」
 咲世子と顔を見合わせたルルーシュは首を傾げる。今日は来客の予定はなく、誰だろうかと不思議がる。
 クラブハウスの一角を改造して作られたこの部屋はそれこそセールスなどは訪れることはなく、自分たち兄妹が住んでいることを知っている人たちしか訪ねに来ない。
 ナナリーの友人だろうかと玄関に向かおうとしたルルーシュを、咲世子は引き留めた。
「ルルーシュ様、私が」
 応対を申し出た咲世子にお願いして、引き続きルルーシュは買ってきたものの仕分けに専念する。扉が開いた気配に咲世子が戻ってきたと勘違いしたルルーシュは、顔を上げずに声をかけた。
「咲世子さん、誰だった?」
「――ルルーシュ」
 その声にルルーシュは、ぴたりと動きをとめた。
「ルルーシュ、久しぶり」
 怖ず怖ずと話しかけるスザクに顔を上げたルルーシュは、久しぶりに見るその顔を見つめる。
 藤堂の処刑決行日――ランスロットのパイロットがスザクだと分かって以来だ。軍からの呼び出しを受けて飛び出すように立ち去り、その日の深夜に一度だけ電話がかかってきたが、二度目の電話は鳴らなかった。
「ルルーシュ様、あの……」
 来客がスザクだったこともあり、確認せずに通したのだろう。なにかまずかっただろうかと顔色を変えた咲世子に、ルルーシュは微笑む。
「咲世子さん、後は任せるよ。――スザク、部屋に行こう」
 こっちだとスザクに自室を案内する。
 部屋に入る前に、荷物を置き終わったナナリーが自分の部屋から出てきた。
「お兄様、どうかされましたか?」
「ナナリー、ちょっとスザクと部屋にいるから、なにかあれば咲世子さんに頼んでほしい」
「スザクさん?」
 えっとその気配を探るナナリーに、スザクはそっと近づく。
「久しぶり、ナナリー。この前はごめん」
 まだきちんと謝っていなかったと謝罪するスザクに、ナナリーは頭を振る。
 いつも嬉しそうにスザクを歓迎していたナナリーは、どこか緊張していた。
「あの、お兄様っ」
「ごめん、ナナリー。あとできちんと聞くから、今は――」
 ごめんともう一度ナナリーへと謝ってから、ルルーシュはスザクと共に部屋に入った。ぴたりと扉を閉じたルルーシュは、覚悟を決めてスザクと向き直った。
「……久しぶりだな、スザク」
「うん。この前は本当にごめん。あと、ずっと連絡が取れなくて、それもごめん」
「いや。事情はなんとなく、分かってる」
 スッとルルーシュはスザクから視線をそらした。
 数日前まで確かに感じていた幸せが嘘のように、今は怒りに似たどす黒い感情が胸を渦巻く。感情に赴くままに問いただしたかったが、ルルーシュは理性で懸命に押しとどめる。
 落ち着けと何度か深呼吸を繰り返してようやく、ルルーシュは顔を上げた。
「それで、技術部に異動になったという話は嘘だったのか?」
「それは本当だよ。でも、どこでそれを?」
 目を瞠ったスザクは不審がる。
「……お前が言ったんだ。記憶をなくす前に」
 息を呑むスザクに、ぐっとルルーシュは拳を握りしめる。
 スザクに記憶がないことは分かっていても、こうして本人の口から改めて思い知らされるたびに胸が苦しくなる。
「技術部に異動したならどうして、ナイトメアなんかにっ」
 畑違いも良いところだ。
 ナイトメアフレームのパイロットなど、それこそ命がいくつあっても足りない。あと一歩というところでいつも取り逃してきたが、ランスロットを追いつめた回数は片手では足りない。
 今まで良く無事だったと、今まで倒せと命じてきたルルーシュでさえ信じられなかった。
「ランスロットに、あの白いナイトメアに騎乗することを条件に、技術部に異動になったんだ。僕がいる技術部は軍組織に組み込まれていない特殊な部署で、他所からパイロットを引き抜くこともできなかったから、それで……」
「ならどうして、ナイトメアのパイロットになったことを教えてくれなかったんだ? それこそ、お前が黙っていろと言えば、誰にも、ナナリーにだって話さなかったっ!」
 信頼されていなかったことがひどく悲しい。
 記憶のないスザクを責め立てたところで、どうしようもないと分かっている。ゼロの正体を秘密にしている立場でスザクを責め立てる資格はないのに、それでも。
「それは、ごめん。でも、心配をかけたくなかったんだ」
「心配? あの映像を見たとき、本気で心臓がとまるかと思った。あの映像を見たときに俺がどれだけショックを受けたか、お前は分からないだろう!?」
 実際はあの現場に居合わせていたが、目の前の光景に本当に心臓がとまるかと思った。
 あの時の自分は冷静さに欠けるほど動揺していた。なんとかギリギリで繋ぎ止めた理性で指示を下したが、その間の記憶はほとんど覚えていない。
「それに……っ」
 翌日にはルルーシュにも届けられていた内通者からの報告に、何度間違えであることを祈ったか。
 正式発表こそされていないが、それはいまや巷を騒がせるほどに誰もが知っていた。否定することなく、今なお沈黙を守っている政庁に、噂は事実なのだろう。事実と異なるなら、はっきりと否定して噂の沈静化を図るはずだ。
 そうしない理由は、ひとつ――。


「――ユフィの騎士になるというのは、本当なのか?」


 否定してほしかった。
 どうしてお前が。
 よりにもよってユーフェミアの騎士になど。
「本当だよ、ルルーシュ。ユーフェミア殿下の騎士として選ばれたんだ」
 否定することなく、どこか誇らしげに肯定したスザクに、全身から血の気が引く。
「ルルーシュ!」
 がくりと膝から崩れたルルーシュはよろめく。慌てて手を差し出したスザクに、気力を振り絞ったルルーシュはその手を振り払う。
「――触るな!」
 それは、悲鳴だったかもしれない。
 よりにもよって、どうしてユーフェミアの騎士なのか。裏切り行為にも似たスザクの選択に、ルルーシュの怒りが頂点に達する。
「ルルーシュ!」
「どうして……っ。どうして、ユフィの騎士なんだ!? 今ならまだ間に合う! 頼むから、ユフィの騎士になんてなるな!!」
「ルルーシュ……っ」
 そう、今ならまだ間に合う。
 騎士の叙任式が行われていない今ならまだ、辞退できる。上から圧力をかけられるだろうが、騎士になってからでは遅い。その前にと。
「それは無理だよ、ルルーシュ」
「スザク!」
「お願いだ、ルルーシュ。騎士になるななんて言わないでほしい。僕はユーフェミア殿下の騎士になりたいんだ」
 慈愛の皇女として、人々から慕われているユーフェミア。彼女のことは嫌いではなかった。異母妹として可愛がり、愛してもいた。皇族としてエリア11の副総督という重責を背負う生活から、以前の学生生活を謳歌する日々に戻ってほしいと願ってさえいた。
 ただし、スザクを奪うなら話は別だ。
「どうして、スザク……っ。なんで、そんなに騎士になりたいんだ!?」
 貴族出身の軍人ならそれこそ幼少期からの憧れと、貴族としてのプライドもあるだろう。でも、スザクは違う。
 憧れも、プライドも、ましてや権力に固執もしていない。それなのになぜと。
「権力を得るためだ。ユーフェミア殿下の騎士になれば、ブリタニアという国を中から変えることが本当にできるかもしれない。だからっ」
 ルルーシュと。両手を伸ばしたスザクから逃れるように、ルルーシュは後ずさる。
 皇族でありながら、国から見捨てられた皇子である自分では到底叶えてやれない願い。それを、ユーフェミアなら叶えることができる。たったそれだけの違いで、ユーフェミアにスザクを奪われるのか。
 絶望にも似た感情に、ルルーシュは片手で顔を覆う。
「ルルーシュっ」
「――帰れ!」
「ルルーシュ!」
「帰ってくれ、スザク! 今はもう、お前の話なんて聞きたくないっ!!」
 両手で耳を塞ぎ、聞きたくないとルルーシュは頭を振る。
 これ以上はもう、なにも聞きたくなかった。
 こぼれそうになる涙を懸命に堪えながら息を詰めれば、諦めたのか、スザクは一歩後ろへと下がった。
「ルルーシュ、今日はもう帰るよ」
「……っ」
「でも、ユーフェミア殿下の騎士になることを諦めるつもりはない」
 最後にそれだけを言い残して立ち去ったスザクに、気力でなんとか立っていたルルーシュはその場にへたり込む。
「……スザクっ」
 分からず屋と小さな声で罵ったルルーシュは、ブリタニアをさらに憎悪した。



「――スザクさん!」
 待ってくださいと。帰ろうとしていたスザクは、慌てて呼び止めたナナリーに足をとめた。
「ナナリー?」
「もうお帰りになるんですか?」
「うん。ルルーシュに帰れって言われちゃったからね」
 ひどく動揺していたルルーシュに、それ以上はなにも言えなかったと。話したりなかったが、あれ以上なにか言えば追いつめるような気がして、スザクは帰ることを決めた。
 忙しい中、ロイドに無理を言っての外出の許可をもらってきていた。早く帰ってくるんだよと言われたこともあり、長くも滞在できない。
「そのことですが――」
「ナナリー?」
「お兄様に、ユフィ姉様の騎士になることをおっしゃったのではないんですか?」
「そう、だけど……」
 ルルーシュとの話を聞かれていたのか。それにしては疑問系で尋ねたナナリーに、あれっとスザクは首を傾げた。
「やはりユフィ姉様の騎士になるんですね」
 あっと、鎌をかけられたことにようやく気づく。
「ごめんなさい、スザクさん。ですが、どうしてもユフィ姉様の騎士になられるのですか?」
「ナナリー、それはっ」
 ルルーシュとナナリーならば、ロイドやセシルのように騎士になることを純粋に祝ってくれると思っていた。予想に反したふたりの態度に、スザクは戸惑う。
 権力を手に入れて、ブリタニアを中から変える。今はまだ途方もない夢物語かもしれないが、時間をかければブリタニアといえど変えることはできる。
 ルルーシュと、そしてナナリーのためにと思っていたのに、ふたりの反応は薄い。それどころかユーフェミアの騎士になることを責め立てるふたりに、なにか間違えてしまったのだろうかとスザクは不安になる。
「スザクさんは、お兄様を愛しておられるのではなかったのですか?」
「ナ、ナナリー!?」
 気づかれていたとは思わず、スザクは狼狽える。ルルーシュに対して、そこまで露骨な態度だっただろうか。
「お兄様を愛しているのなら、ユフィ姉様の騎士になるのはやめてくださいっ」
 お願いしますと必死に懇願するナナリーに、迷いが生まれる。
 本当にこのまま、ユーフェミアの騎士になっても良いのだろうか。でも彼女は、主従関係に縛られるようなものではなく、共犯者として騎士になってほしいと言ってくれた。
 必要ならば自分の権力を利用しても良いとさえ言ってくれた。代わりに、その力を貸してほしいと。スザクにしか持ち得ないその力が必要なのだと言ってくれたユーフェミアに、スザクは迷いを振りきる。
 今はきっと、分かってはもらえないかもしれない。時間が経てば、いずれふたりも分かってくれると。
 ユーフェミアの騎士になることは間違ってはいないと、スザクは自分を納得させる。
「ナナリー、ごめん。ルルーシュのことは愛している。でも、ユーフェミア殿下の騎士を辞退することだけはできない」
「スザクさんっ」
 ルルーシュが幸せに暮らしていける世界であってほしい。
 ただ、それだけだ。
 その願いを叶えるためにも、ユーフェミアの騎士という立場は捨てられない。
 いつ正体が知られ、再び政治の道具として利用されるのかと日々怯えるふたりのためにも、今のブリタニアを変えなければいけない。
「……皇族にとっても、騎士は憧れの存在です」
「ナナリー?」
「時には恋人よりも、伴侶よりも、騎士との絆は深く結ばれます」
「ナナリー、なにを……っ」
「もしも主人と恋人が同時に命の危機にさらされたとき、スザクさんはどちらを選びますか?」
 究極の選択だ。
 永遠の忠誠を誓った主人と、愛する恋人。
 どちらを選んでも、大きなものを失うことになる。
「騎士になるということは、そんな場面に遭遇したとき、恋人を見捨てるということです。目の前で恋人が死ぬと分かっていても」
「……っ」
「それでもスザクさんは、ユフィ姉様の騎士になることを選ぶのですか?」
 ルルーシュを見捨てる。
 そんなことができるはずがない。
 なにを捨てることになろうとも、ルルーシュだけは無理だ。
 それでも――。
「ナナリー、ごめん」
 騎士になると決めたのだ。
 主従関係ではなく、共犯者として。
 今はまだルルーシュも動揺しているだろうが、落ち着いたときに言葉を尽くして説明すれば分かってくれるはずだ。
「スザクさん……っ!」
「ごめん、ナナリー。少しの間だけっていう約束で抜け出してきたんだ。今日はもう帰らないと」
 これ以上は流石に、ロイドたちに迷惑をかけてしまう。できればナナリーだけでも説得して帰りたかったが、後日でも十分に間に合うだろうと。楽観的に考えていたスザクは、最後まで気づかなかった。
 ルルーシュが負った、深い、深い傷に――。

  

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