うたかた T
目が覚めたスザクは、見慣れない天井に目を瞬かせる。軍から与えられた自室の天井でもなく、アッシュフォード学園の一角を借り受けた特派の仮眠室の天井でもない。
周囲を確認しようと体を起こそうとしたスザクは、全身に走った激痛に息を呑む。
「――スザクくん!?」
まだ起き上がっちゃ駄目よと、慌てて駆け寄ってきたセシルにスザクは痛みを堪えながら目を薄く開く。
「セシル、さん。ここは、一体……?」
「軍病院よ。昨日のこと、覚えてる?」
「昨日……?」
どうして軍病院にいるのだろうか。全身に走った激痛となにか関係あるのかと必死に記憶を思い起こしたスザクは、表情にこそ出さなかったがひどく落胆した。
ようやく死ねると。
誰に責められることなく、ようやく死ぬことができると思ったのに。
また、死ねなかった。
あの状況下でも生き残れる自分の悪運の強さをスザクは心底呪いたくなる。
「……思い出しました。でも、あの状況下でどうして僕は生きているんですか……?」
意識を失う前に見た、迫り来る輻射波動。あの状況下でなぜ助かったのか。
かなりの損傷を受けたランスロットでは、輻射波動に耐えることはできない。大きな怪我も負っていない体に、意識を失った直後になにが起こったのかとスザクはセシルへと尋ねた。
「コーネリア殿下が、間一髪のところで駆けつけてくださったのよ」
あともう少しでも駆けつけるのが遅ければ、間に合わなかったと。あの状況下でスザクが助かった理由をセシルは語る。
「コーネリア殿下が……?」
コーネリアの腹心の部下であるアンドレアス・ダールトンには認められつつあるとはいえ、コーネリア本人からは疎まれている自覚はある。窮地に立っていたとはいえ、一介の兵士、それもいくらでも替えが効くナンバーズ。総督であるコーネリアがわざわざ駆けつけたことに眉を寄せたスザクだったが、すぐにはっと顔色を変えた。
「ゼロは……!?」
赤いナイトメアフレームの近くに、ゼロもまたいた。ゼロを捕らえるためのまたとない機会を、コーネリアが逃すはずがない。
「……逃げられたわ」
「そうですか……」
そうだろうなと、スザクは目を伏せる。
ハイエナのように美味しいところだけを横取りしたあとは、こちらの追跡をいとも容易くかわしてゼロは逃げてしまう。相変わらず逃げ足だけは速いと忌々しく思いながら、コーネリアもまたもう少し駆けつけるのが遅ければと、今回ばかりは恨めしい。
「――あっ! セシルさん、ランスロットは!?」
痛みを堪えながら体を少し起こしたスザクは、セシルへと詰め寄るように尋ねる。
機能が停止し、コクピットに及ぶまで損傷を受けたランスロットはどうなったのか。損傷具合によっては最悪廃棄されることになるだけに、無事かどうか不安になる。
正確な損傷具合は分からないが、修復不可となれば被害は甚大だ。ロイドに恨まれるだけでは足りないと青くなるスザクに、大丈夫よとセシルは苦笑する。
「修理に時間はかかるけど、修復可能よ」
その言葉に良かったとスザクは心底安堵する。万が一にでも修復不可能だとランスロットが破棄されるようなことになれば、ロイドだけではなくスザクもまた痛手を被っていた。
一等兵時代に一度だけスザクはナイトメアフレームに騎乗したことがあった。こんなものがブリタニアが誇る最新兵器なのかと。あまりの動作の遅さに、スザクはひどく落胆したものだ。難しい操縦だと散々聞き及んでいただけに落胆は大きかった。
ランスロットはあのときの動作の遅さが嘘のように、まるで自分の手足のように機敏に動く。望むままに動いてくれるランスロットに以前の経験をロイドたちに話せば、苦笑された。
普通の人はナイトメアフレームをそこまで操縦できないよと。訓練してようやく、量産型のナイトメアフレームを動かすことができるのだと。ましてや騎乗経験が一度だけで、ランスロットをあそこまで乗りこなすことの方が難しいとだとロイドから教えられたときには、スザクは驚いたものだ。
もしランスロットが破棄されるようなことになれば、新たな新型機が完成するまではナイトメアフレームには乗れなくなる。動作の遅さもそうだが、コーネリアがランスロット以外の騎乗を許すはずがない。
これまでの貢献があったとしても、ナンバーズがナイトメアフレームに騎乗することを反対しているコーネリアが他の機体への騎乗を許すはずがない。特派が帝国宰相であるシュナイゼルの直轄部署とはいえ、エリア11の総督はコーネリアだ。エリア11で暮らしていくことを考えれば、これ以上コーネリアに睨まれることは避けたい。
「だから修理期間中は、ゆっくり休んでなさい」
「でもっ」
ランスロットが損傷してしまったのは、自分の判断ミスが原因だ。特派のスタッフが忙しく働き回る中、ひとり休んではいられない。
「あなたはまず、その怪我の回復に努めなさい。怪我が治るまではランスロットの修復が終わっても騎乗は許可できないわ」
「けどっ」
「スザクくん、今のあなたに必要なのは休養よ。ロイドさんからも許可はもらったから、今はゆっくりと休みなさい」
良いわねと。有無を言わせないセシルに、渋々とスザクは頷く。
起き上がろうとするだけで全身に走る激痛に、今はセシルの言うとおりに休むしかないと分かっていた。ただ、ランスロットの損傷具合を考えると、どうしても気持ちばかりが焦ってしまう。
「入院はいつまでですか?」
「検査で異常がなければ、すぐにでも退院はできるわ」
「検査、ですか……」
「頭を打っているから、念のためにね。体を動かせないのは辛いだろうけど、数日の我慢だから」
大人しくしていてねと。まるで我が儘を言う子どもを言い聞かせるような口調に、スザクは苦笑する。
普段から体を動かしていることもあり、数日とはいえベッドに拘束されるのは落ち着かない上に苦痛もある。とはいえ、嫌だと反抗するような年齢でもない。大人しく検査を受けられるぐらいには堪え性もあるつもりだった。
「一通り必要な書類は提出済みだけど、なにか困ったことがあったらすぐに連絡してちょうだい」
「なんだかすみません」
「気にしないで。怪我人と病人は、こういうときは素直に甘えるものよ」
軍に入隊してからというもの、自分のことは自分でするのが当たり前だった。こうして人に甘えるのは何年ぶりだろうか。セシルのやさしさが、どこかくすぐったかった。
「私はもう行くわね」
「じゃあ、正面出入り口まで見送りを――」
起き上がろうとするスザクを、セシルは慌てて押しとどめる。
「怪我人が無茶しちゃ駄目よ。それでなくとも頭を怪我しているんだから、退院するまでは安静にしていなさい」
良いわねと、セシルは念押しする。
少し過保護なような気もするが、それだけ昨日のことで心配をかけてしまったのだろう。
当人であるスザクでさえ、もう駄目だと一度は覚悟を決めたのだ。ただ見ていることしかできなかったセシルやロイドはどんな思いだったのか想像しただけで、ふたりに対してスザクは申し訳なくなる。
「セシルさん!」
立ち去ろうとする背へと慌てて声をかければ、どうしたのとセシルは振り返った。
「あの、今日はありがとうございました」
「……どういたしまして」
微笑むセシルをベッドに横たわりながら見送ったスザクは、ふっと体から力を抜くとゆっくりと片手を天井へ向けて掲げた。
「……生きてる」
――ようやく死ねると、そう思ったのに。
セシルはもちろん、ロイドや特派のスタッフたちは生還を喜んでくれていると分かっていても、死ねなかったことにひどい絶望感が襲う。
これまで散々苦しんできた。まだ苦しみ足りないと、そう言うのだろうか。
生きてもっと苦しめと。
死ぬことはまだ許さないと。
まるでなにかにそう言われているような気がして、スザクは掲げた手をぐっと握りしめる。
今はもう、なにも考えたくなかった。考えることを放棄したスザクは目を閉じる。
昨日からずっと寝ていただけに、眠れないかもしれないと思ったが、目を閉じれば眠気はすぐに襲ってきた。眠気に誘われるがままに寝入ろうとしたスザクは、ふと誰かに名前を呼ばれた気がした。
誰が名前を呼んだのだろう。起きようと目を開けようとするが体が休息を欲しているのか、中々目を開けられない。懸命に目蓋を持ち上げようと努力してみたが、少しずつ遠くなっていく意識についにスザクは音を上げた。
きっと次に目を覚ましたときにでも、誰が名前を呼んだのかきっと分かるはずだと。眠気に抗うことを諦める。
なにか、とても大切なものを忘れているような気がした。きっと気のせいだと。名前を呼んだ声に聞き覚えがないことに気づかないまま、スザクは再び眠りについた。
数日にも及ぶ検査に気が滅入り始めた頃、ようやく異常なしという診断が下されたのは昨日のことだった。即座に退院の手続きをしたスザクは、翌日の今日、久しぶりのアッシュフォード学園を眩しそうに目を細めながら見上げる。
数日振りのアッシュフォード学園に、なぜか懐かしささえ感じる。今回よりも長い日数を休んでいたこともあったのに、ひどく懐かしく感じるのは、一度は死を覚悟したからか。
「――あれ、スザク!?」
ぼんやりとアッシュフォード学園を見上げていたスザクは、振り返りながら微笑む。
「リヴァル」
久しぶりと。声を掛けたスザクに目を見開いたリヴァルはもの凄い勢いで詰め寄った。
「スザク、その頭の包帯はどうしたんだ!?」
一体なにがあったんだと。頭に巻かれた包帯にリヴァルの顔色が青くなる。
「軍の仕事の最中に、ちょっとね」
「軍の仕事……」
呆然とリヴァルは呟く。
傍目から見れば、頭に包帯が巻かれていること以外は普段のスザクと変わらないように見えた。今さらながらにクラスメイトであり、生徒会の仲間であるスザクの立場を思い出したリヴァルは、複雑そうな表情を浮かべる。
「学園に来てるってことは、もう大丈夫なんだろうが、怪我はもう良いのか?」
「見た目こそひどいけど、頭を打ったときに怪我をしただけだから」
心配するリヴァルに、大事を取って包帯を巻いているだけだとスザクは説明する。立ち止まって話をしていたふたりは、他の生徒の迷惑になると歩き出した。
「頭を打ったなら、記憶障害とかそういうのは大丈夫だったのか?」
怪我よりもそちらのが心配だとリヴァルは不安がる。
「色々と検査を受けたけど、どれも異常なしだったよ」
最も問題視されたことだけに様々な検査を受けさせられたが、全て異常は見られなかった。ただの怪我、それもどれも全治一ヶ月にも満たなかっただけに、ロイドから相変わらず丈夫だねと揶揄された。
本当のことだけにスザクは苦笑することしかできなかった。その後ロイドはセシルにこっぴどく叱られたが、いつもの光景だった。
「そういえば来週から定期テストが始まるけど、スザク、お前大丈夫か?」
「あっ」
定期テストと、その存在をすっかりと忘れていたスザクは硬直する。ただでさえ出席日数が危ういというのに、定期テストをひとつでも落としてしまえば留年はほぼ確実だ。
肝心の定期テストも、どの教科も合格点を取れる自信はない。今回ばかりは本気で危ないと冷や汗をかけば、ポンッとリヴァルに肩を叩かれた。
「ご愁傷様」
「リヴァル、定期テストまで時間ある!?」
勉強を教えてほしいと請えば、悪いなと返された。
「スザク、俺だって定期テストを受けるんだぜ。時間はあっても、俺も勉強しなきゃ」
試験対策の勉強をしなければいけないのは、お世辞にも成績が良いとはいえないリヴァルもまた同じだ。スザクに教えるだけの余裕はリヴァルにはない。
「そうだよね……」
せめて定期テストのことを覚えていれば入院していた間に少しでも勉強していたのにと、無駄にした数日間を今さらながらにスザクは悔やむ。
唯一の救いは、怪我が完治するまでは仕事には復帰させないとセシルから厳命を受けていることもあり、定期テスト期間中まで時間はたっぷりとあることだ。休んでいた間のことを考えれば、今は時間がいくらあっても足りない。
「そんなに心配しなくても、ルルーシュが見てくれるから大丈夫っしょ」
「ルルーシュ……?」
聞き覚えのない名前に、スザクは首を傾げる。
休んでいた間に時季外れの転校生でも来たのだろうか。それにしては親しげに名前を出したリヴァルに、覚えていないだけでクラスメイトの誰かだっただろうかとスザクは懸命に記憶を探る。
「スザク?」
普段とは違うスザクの反応に、リヴァルは怪訝そうに顔をしかめた。
「ルルーシュと喧嘩でもしたのか?」
「えっ?」
「違うのか? じゃあ――」
ルルーシュという見知らぬ相手と自分が親しい間柄のように名前を出したリヴァルに、スザクは困惑する。
すれ違う生徒たちとは違い、駆け足で自分たちに近づいてくる人影にスザクはすぐに気づいた。濡れたように艶ややかな漆黒の髪に真っ先に目を留めたスザクは、宝石のように美しい紫水晶(アメジスト)と目が合った瞬間、あまりにも整った顔立ちに思わず息を呑む。
着ている制服で相手が男だと分かっても、女性のような美しさに心臓が高鳴る。これで女性ならば完全に一目で恋に落ちていた。
男性だったことを嘆くべきか、女性でなかったことに安堵するべきかとスザクは悩む。同性だと分かってもなおその美貌に見惚れていたスザクは、もの凄い勢いで顔をつかまれたことに目を白黒させる。
「スザクお前、その頭の怪我はどうしたんだ!?」
「えっ、あっ、これは……っ」
初対面の相手からの不躾な態度に唖然とするより前に、すぐ目の前にある顔にスザクは魅入る。同性だと分かっていても、魅入らずにはいられない。
「軍の仕事の最中に怪我したってさ。検査では異常なしだってよ」
相変わらず丈夫だよなと、ひとり感心しながら話すリヴァルに、顔をつかんだまま、そうなのかと目の前の相手はスザクへと問いかける。コクコクと頷いて肯定すれば、安堵のため息をつきながら、ようやくつかんでいた顔を離してくれた。
「全く、お前ときたら。運動神経だけが取り柄だと思っていたら、怪我をしてくるとは! しかも頭を!! これ以上馬鹿になったらどうするつもりだ!?」
「おーい、ルルーシュ。流石にそれはひどいって」
随分と親しげなリヴァルと、ルルーシュと呼ばれた少年に、スザクはますます困惑する。
リヴァルが言っていたルルーシュというのが目の前の少年のことだというのは分かった。ただこれほどまでに整った容姿をしている相手のことを忘れるなどあり得ない。親しくしている相手ならもちろん、クラスメイトや同級生だとしても、ここまで特徴的な相手ならば一度見れば忘れられない。
どうもリヴァルたちと記憶の誤差があることに気づいたスザクは、傍目から見れば掛け合い漫才にしか見えない言い争いをしているふたりへと声を掛けた。
「あの!」
「スザク?」
どうしたと。首を傾げながら微笑むルルーシュに、心臓がドキリと高鳴った。相手は同性だと自分に言い聞かせながら、スザクは心臓を落ち着かせる。
「リヴァル、今回のこれも会長の提案?」
「スザク?」
なにを言っているのだと。不可解なものを見るかのようなリヴァルとルルーシュに、あれっとスザクは当惑する。
「僕を驚かせるためのどっきりかと思ったんだけど、もしかして違った?」
リヴァルへと尋ねれば、戸惑いがちにふたりは顔を見合わせた。お互いに困惑し合っている様子に、なにかがおかしい。
「……スザク、俺のことは分かってるよな?」
自分のことを指差すリヴァルに、もちろんとスザクは頷く。
「リヴァルだろう。なに、変なことを言っているのさ」
「生徒会メンバー全員の名前を言ってみろ」
「急になんで……」
「良いから!」
「ミレイ会長、シャーリー、ニーナ、カレン、それにリヴァルだろう。あっ、ナナリーも生徒会メンバーかな?」
不審に思いながらも生徒会メンバーの名前を全員上げれば、ふたりの顔色が変わる。信じられないものを見るかのように目を瞠ったふたりに、スザクは思わず後ずさる。
誰もなにも言えない雰囲気を、陽気な声が唐突に打ち破った。
「おはよう、諸君! 今日も良い天気ね」
にこにこと最初は笑顔だったミレイも三人の間に流れる微妙な空気に気づいたのか、怪訝な顔を浮かべる。
「なにかあったの?」
「……実は――」
呆然として使いものにならないルルーシュと、状況がいまいち呑み込めていないスザクに代わり、リヴァルがミレイへと現状を説明する。
徐々に顔色が険しくなっていくミレイに、流石のスザクも自分の記憶になにか問題があるのだと気づく。ただ、どれほど考えても、なにが問題なのか分からなかった。
「スザク、リヴァルの話に間違いはない?」
くるりと、今までリヴァルの話を真剣に聞いていたミレイは振り向くなり、眉間に皺を寄せながら尋ねた。
「全部合ってます」
頷けば、片手で額を押さえたミレイは小さなうなり声を上げる。
常にない緊迫した雰囲気に不安に思いながらもルルーシュの様子を窺えば、いつ倒れてもおかしくないほどに真っ青な顔色をしていた。なにか声をかけるべきかと悩んでいれば、先にミレイが口を開いた。
「スザク、冗談でも嘘でもなくて、本気でルルーシュのことが分からないの?」
「は、はい。あの、もしかして僕の知り合いなんでしょうか?」
ミレイとリヴァルに尋ねた瞬間、ルルーシュはぐしゃりと顔を歪めた。今にも泣き出しそうなルルーシュに、今のは失言だったと遅まきながらにスザクは気づく。
放った言葉は最早取り消せない。慰めの言葉をかけようにも、なにを言えば良いのかすら分からなかった。途方に暮れていれば、がしりと今度はミレイに手首をつかまれる。
「会長……?」
「生徒会室に移動しましょう。話はそこで聞くから」
有無を言わせないミレイに、スザクは頷くしかなかった。
「リヴァル、先生には私たち三人は生徒会の用事で遅刻するって説明しておいてちょうだい。それと、このことはまだ誰にも言わないこと。良いわね」
リヴァルの返事を聞くことなく、ルルーシュの手首もつかんだミレイは、無理矢理引っ張るようにふたりを生徒会室へと連行する。
生徒会室に到着するなり、立っているのもやっとな様子のルルーシュを無理矢理椅子へと座らせたミレイは、スザクへと向き直った。
「さて、スザク。頭を怪我したけど、検査では異常はなかったのよね?」
「はい」
「なら、忘れているのはルルーシュのことだけか」
険しい顔をしながら腕を組んだミレイは、唇を噛みながら考え込む。
流石に自分の記憶のどこに問題があるのか、いい加減スザクは自覚していた。
けれどたったひとりだけ、その存在すらも忘れてしまうようなことがあるのだろうか。数日や数ヶ月、数年といった記憶の抜け落ちならまだしも、その存在を抹消するかのように、たったひとりを忘れてしまうことが。
真っ青を通り越して、青白い顔色をしたルルーシュを案じながらも、スザクは疑念を抱いていた。
「……あの、会長。彼は――」
「はい、ストップ」
ちょっと今は黙っててねと。制止したミレイは、生徒会室に置かれたアルバムを取り出して広げた。
アルバムの写真は、先日生徒会メンバーで行われたパーティーのものだった。写真に写り込んでいるルルーシュの姿と、それに混じるように一緒に写り込んでいる自分の姿に、あっとスザクは声を上げる。
「ルルーシュが生徒会メンバーなのは、これで分かった?」
「は、はい」
アルバムの写真は、ルルーシュもまた生徒会メンバーのひとりだとはっきりと語っていた。合成写真かとも一瞬疑ったが、そこまで手間をかける理由もなければ、写真はとても合成写真には見えなかった。
「ここからが問題なんだけど、ナナリーのことは覚えているのよね?」
「覚えています」
声を潜めたミレイに、なにを言わんとしているのか察したスザクは顔を強張らせる。なにも知らない第三者の前でするような話ではないのになぜと警戒するスザクに、困ったなとミレイは苦笑した。
「ルルーシュは、ナナリーのお兄ちゃん。つまり、ふたりは実の兄妹よ。腹違いでもなんでもない、正真正銘血の繋がったね」
「えっ? じゃあ、彼は――」
八年前、留学という名目で人質としてブリタニアから日本へと送られてきたひとりの少女。皇族でありながら、皇族らしからぬ少女と親しくなるのに、そう時間はかからなかった。
目が見えず、車椅子で生活している理由も。ブリタニア皇族でありながら、一般人に紛れてアッシュフォード学園で生活している理由も。隠されている出自も全て、スザクはナナリーから教えてもらっていた。実の兄だという目の前にいるルルーシュのこと以外は――。
たくさんの異母兄弟がいることは八年前に聞いていたが、同母の兄弟がいることは聞いたことはない。
あのナナリーが実の兄に関することを、果たして自分に黙っているだろうか。秘密にする理由もなければ、ミレイやリヴァルの態度から、頭を打った衝撃でルルーシュのことだけを忘れてしまったと考えるのが自然だった。
「本来なら再検査するべきなんでしょうが、事情が事情よ。スザク」
再検査を受けるとなれば、その理由を医師や上司であるロイドにも話さなければならない。
数年分の記憶を失っていると分かったならまだしも、身を潜めている皇族に関する記憶が丸々と消えたのだ。なにが原因でふたりの正体が知られるとも限らない危険な真似は冒せない。
懇願の眼差しを向けるミレイに、分かってますと再検査を受ける意志はないことをスザクは示す。
「上司にはもちろん、軍の関係者にも絶対に話しません」
迂闊に話してルルーシュのことに気づかれでもしたら、ナナリーと共にブリタニア本国に連れ戻され、八年前と同じく再び政治利用されるのは目に見えていた。ふたりを匿っていたアッシュフォード家もまた、処罰は免れないだろう。
ナナリーはもちろん、ミレイをそんな目に遭わせたくはないと、なにがあろうと口外しないことをスザクは固く誓う。
「ありがとう、スザク」
「いえ。それよりも」
ちらりとルルーシュの様子を見れば、うつむいてその顔色まではうかがい見られなかった。
いまだショックから覚めてはいない様子のルルーシュに、罪悪感から胸が苦しくなる。やさしげな笑みを見たあとだけに、今のルルーシュはあまりにも痛々しくて見ていられなかった。
「――ルルーシュ」
大丈夫と、背中を撫でながら顔を覗き込んだミレイに、ルルーシュはゆっくりと顔を上げた。
血の気のない青白い顔色に、罪悪感からスザクは顔を背けてしまう。縋るような眼差しをルルーシュが向けたことに、顔を背けたスザクは気づくことはなかった。
「今日はこのまま帰りなさい、ルルーシュ」
今にも倒れそうなルルーシュに、ミレイは命じる。逆らうことなく頷いたルルーシュは、すみませんと小さな声で謝罪しながら力なく立ち上がる。
「……会長」
「なに?」
「できれば、ナナリーには……っ」
心配をかけたくないと呟くルルーシュに分かったわとミレイが頷けば、強張っていた表情が少しだけ和らいだ。それだけでルルーシュがナナリーのことをどれほど大切にしているのかが分かる。
やさしく愛らしいナナリーのことを、周囲は可愛がり、大切にしていた。ひとりっ子で兄弟はいないが、スザクもまたナナリーのことを妹のように可愛がっていた。
ショックを受けながらもナナリーを真っ先に考えたルルーシュに、スザクは苛立ちを覚えた。それに、なぜとスザクは当惑する。
嫉妬しているのだろうか。だが、誰に――?
ナナリーのことは可愛がってはいるが、妹のようにしか見ていない。ナナリーに恋人ができたとしても、相手の素性を心配することはあっても、ひどい相手でなければ反対はしない。
では、ルルーシュに恋人がいたとしたらと考えた瞬間、頭に血が上った。すぐに冷静さを取り戻したスザクは愕然とする。
同性のルルーシュに、こんな感情を抱くなど間違っている。しかも、スザクにとっては出会ったばかりの相手だ。ただ、不思議と嫌悪も抵抗もなかった。
ふらふらとした足取りで生徒会室を出て行ったルルーシュの背中を、ミレイと共にスザクは黙って見送った。
「スザク、聞いていたと思うけど、ナナリーにはルルーシュの記憶だけをなくしたことは秘密にしてちょうだい」
「それは構いませんが……」
ナナリーに心配をかけたくないという気持ちは分かるだけに、異論はない。ただ、それには問題があった。
ルルーシュに関する記憶がほぼ真っ白な状態で、どうやって周囲を誤魔化すか。ナナリーに秘密にするということは、周囲にも秘密にしなければならない。
「必要な情報は全て教えるわ。定期テスト前で悪いけど、今日の放課後は生徒会室に残ってくれる?」
「分かりました。でも、他の生徒会メンバーにも秘密にするんですか?」
「うーん。シャーリーには簡単に事情を説明しておくか。なにかあったときのサポート役にリヴァルとシャーリーがいれば、あとはなんとかなるでしょう」
なんとかならなければ、その時はその時だとミレイは開き直る。普段と変わらないように見えたが、まさかの事態に流石のミレイもいまだ混乱しているのだとスザクはようやく気づく。
「会長、僕のせいで色々とすみません」
「スザクだって好きでルルーシュの記憶を失ったわけじゃないんだから気にしないの。それより、一番の問題はルルーシュか」
どうしようと頭を抱えるミレイに、気になっていたことをスザクは尋ねた。
「僕と彼は、どういう関係なんですか?」
友人が自分のことだけを忘れ去っていたとなれば、誰でも動揺する。もしもリヴァルやミレイ、ナナリーが自分のことだけを忘れていたなら、スザクもまた動揺しただろう。
とはいえ、友人という関係にしてはルルーシュの態度は大袈裟すぎるような気がした。ただの友人が自分のことを忘れただけで、あそこまで動揺するものだろうか。
「一言で言えば、親友かな」
「親友、ですか……?」
「一を言えば、十を理解し合える相手。それが、私が知っているスザクとルルーシュの関係よ。はたから見てもお互いに理解し合っているのがよく分かったわ。あのルルーシュがナナリー以外に穏やかに笑ったときなんて、思わず嫉妬したわ」
目を細めながら、どこかもの悲しそうに語るミレイはスザクを無言で責め立てていた。
ミレイの言葉が確かなら、自分はルルーシュとは唯一無二の親友だったのだろう。その親友が他のことは覚えているのに、自分のことは忘れてしまったルルーシュの衝撃は計り知れない。
その親友が自分だという事実に、スザクは複雑な思いに駆られる。
「……彼は、ルルーシュは大丈夫なんですか? 部屋でひとり倒れたりしたら……」
今にも倒れそうな雰囲気だっただけに、部屋で倒れていないかと不安になる。
ナナリーの兄ならば、自宅や寮ではなくクラブハウスの一角を改造した部屋で暮らしているはずだ。共に暮らしているナナリーは今頃は中等部で授業を受けており、部屋には誰もいない。
「大丈夫よ。今日は咲世子さんがいる日だから」
すっかりと忘れていた。
足と目が不自由なナナリーのために、アッシュフォード家から週に数回メイドが派遣されていることをスザクは思い出す。ルルーシュという存在を忘れたことで辻褄が合わない部分は、記憶の綻びが生じているのかもしれない。そこからどうにか忘れた記憶を取り戻せないものだろうか。なにかの切っ掛けでもあれば、もしかしたら。
「……会長はどうして僕が彼を、ルルーシュだけを忘れてしまったんだと思いますか?」
親友ともいうべき親密な相手の記憶だけを、なぜ忘れてしまったのか。他のことは覚えているのに、たったひとりだけを。
「大切だったからじゃない?」
「えっ?」
「どういった状況で記憶を失ったのかは分からないけど、怪我をした直前まで考えていたのがルルーシュのことだったからとか」
それなら記憶を失った理由も納得するわと。苦笑するミレイに、包帯が巻かれた頭へとそっと手を伸ばした。
輻射波動が迫り来る中、ようやく死ねると安堵したあのとき――。
――ルルーシュのことを考えていた?
ルルーシュたちの立場を考えれば、納得できた。
きっと自分のことだ。ふたりを守ると、そう誓ったはずだ。
あの瞬間、その約束は守れそうにないとルルーシュのことを思い出したとしても不思議ではなかった。
「そうじゃなきゃ、ルルーシュのことを忘れたいなにかが、あなたにあったことになるもの」
あなたたちふたりに限って、あり得ないと思うけどと。何気なく呟いたであろうミレイのその言葉を、スザクは気にも留めなかった。
「スザク」
「はい」
「今のあなたに頼むのは筋違いかもしれないけど、ルルーシュのこと、お願いね。きっと私じゃ駄目だから」
「会長……?」
「ルルーシュは強いわ。でも、その分だけ脆い。今まで平気だったことも、きっと今のルルーシュには辛いはずよ。だから、できる限りルルーシュから目を離さないでちょうだい」
意味深な言葉を残して、ミレイもまた生徒会室から立ち去った。
どさりと、ルルーシュはベッドへと力なく倒れ込んだ。
制服が皺になるなと、どこか冷静な部分で考える。明日のことを考えれば早く起き上がるべきだったが、気力が湧かない。そういえばと、替えの制服がクローゼットにあることを思い出したルルーシュは、起き上がることを諦めて目を瞑った。
スザクの頭に巻かれた包帯に気づいた瞬間、血の気が引いた。軍に身を置いているとはいえ、技術部に所属が異動したとスザクから聞いていたルルーシュは、これで怪我をすることはないと安心していた。
前戦に立たなくても怪我をしたスザクに、流石に軍を辞めろとルルーシュは説得するつもりだった。ナナリーと、そして自分のことを少しでも思ってくれるならと。だが、説得はできなかった。
キリキリと痛み出した胃に、ルルーシュは体を丸めながら枕へと顔を押しつけた。
幼かった頃は気づかなかったが、二度目の再会を果たしたあと――スザクがアッシュフォード学園へと入学してから、ルルーシュはスザクが好きだと気づいた。
大切な人は作らないと決めていたのに。気づけば、どうしようもないぐらいスザクに惚れていた。
なんの不安もなく背中を預けられる唯一の相手に惚れるのは仕方ないと、ルルーシュは早々に自分の想いを受け入れた。同性であることが気にならなかったといえば嘘になるが、抱えている問題を考えれば、性別など些細な問題だった。
七年前、ブリタニアによる日本占領の際に、日本に留学していたルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとナナリー・ヴィ・ブリタニアの幼い兄妹は公式では死亡していることになっている。
アッシュフォード家の尽力により偽装できたとはいえ、自分たち兄妹を救出し、死を偽装したのは忠誠心からではない。ましてや幼い兄妹に同情したからでもない。
アッシュフォード家の当主でもあるミレイの祖父ルーベンは、マリアンヌ暗殺により伯爵位を剥奪されたとはいえ、元はブリタニア貴族だ。強かに生き残っている男が、生易しい性格をしているはずがない。
どんな思惑があるのかは知らないが、そこに利用価値を見いだしたからこそ救出し、死を偽装したに過ぎない。それを分かっているからこそルルーシュは今は大人しくルーベンの庇護下にいるが、いずれこの鳥籠からナナリーと共に逃げ出す算段はしてある。
いつルーベンが自分たち兄妹に牙を剥くかと日々警戒しながらも現状にしがみついているのは、少しでもナナリーに普通の生活を送ってほしかったからだ。
アッシュフォード家の庇護下にあるとはいえ、兄妹ふたり、支え合いながらずっと生きてきた。そこに現れた、決して自分たちを裏切らない事情を知る昔なじみに、ルルーシュが恋に落ちるのは自然の成り行きだった。
ゼロとしては、スザクに想いを打ち明けるべきではないと分かっていた。日に日にあふれ出しそうな想いに、ルルーシュは振られる覚悟でスザクに告白しようと決めた。
この想いをスザクが受け入れてくれるとは思っていない。告白することでスザクとは距離ができるだろうが、この想いを忘れられる良い機会だった。
そして、あの日――。
軍からの急な呼び出しを受けて、話を聞くことなくまた今度と笑顔で立ち去ったスザクの姿に、ルルーシュは妙な胸騒ぎを覚えた。ようやく決心した告白できなかった苛立ちもあって、単なる気のせいだと気にも留めなかった。
数日の休学を経て、ようやく登校したスザクの記憶から自分の存在だけが消えたなど、なんの冗談だと笑い飛ばしたかった。
「…………っ」
こぼれ落ちそうになる涙を、ルルーシュはぐっと堪える。
次に会ったときに、今度こそ告白するのだと。
振られても良い。嫌われても良い。万にひとつでも受け入れてくれるなら幸運だと思いながらも、期待は全くしていなかった。
告白さえできればと、そう思っていたのに。
今朝までの自分を嘲笑うかのように、乾いた笑い声をルルーシュは上げる。
「告白どころか、忘れられるなんて……っ」
本当に、なんの冗談なのだろうか。
これが夢だったら良いのに。もしも本当に夢だったなら、明日スザクにでも笑い話として話そうと。
乾いた笑い声が、嗚咽に変わるのにそう時間はかからなかった。