セシルが帰宅してからおよそ一時間後。ようやく呼び戻されたミレイは、アッシュフォード学園のクラブハウスの一角――ルルーシュとナナリーの住居となっているリビングにいた。
部屋を出るときにはいたはずの黄緑色の長い髪の少女の姿はすでになく、部屋にはルルーシュの姿しかなかった。先ほど気配もなく隣室から現れた様子から、無駄だと分かっていても、ミレイはルルーシュ以外の気配を注意深く探る。どれほど探っても、やはりリビングはもちろん、隣室からも自分たち以外の気配は全く感じられなかった。
「――気になるか?」
「いえ」
気にならないと言えば嘘になる。けれど、ルルーシュがなにも言う気がないのなら、ミレイは何も聞くつもりはなかった。
「今はまだ詳しくは教えられないが、あいつはC.C.という」
「C.C.ですか……?」
本名とは思えない名前に戸惑っていれば、くすりと、どこか上機嫌なルルーシュが笑う。
「言っておくが、本名ではない。通り名か、通称みたいなものだと思ってくれれば良い」
「はい」
ためらいもなく頷けば、ルルーシュはゆっくりと目を細めた。優しげな、慈愛に満ちた眼差し。この七年間、ずっと妹であるナナリーに向けられる以外見たことのなかった眼差しに、はっとミレイは目を瞠る。
幼かった頃は度々向けられていた慈しむ眼差し。八年前に一度は主たちを奪われたときから向けられなくなった眼差しに、歓喜と共にミレイは嫌な予感を覚えた。
「――ミレイ」
「ルルーシュ様……?」
胸騒ぎに、ミレイはごくりと息を呑み込んだ。
「俺たち兄妹を見捨てるのなら、今の内だぞ」
「ルルーシュ様!」
なにを言っているのですかとミレイは叫ぶ。状況が変化し、祖父を始めとする真実を知る者たちが裏切ったとしても、自分だけは決してルルーシュたちを裏切らないと。一度は失ったと思い、絶望するしかなかった一年間。あの時の辛さを再び味わうぐらいなら、祖父や両親と決別することを、すでにミレイは選んでいた。
「ルルーシュ様、私を置いて、どこかに行ったりしないで下さい! 私は……、ミレイは、ルルーシュ様がご一緒なら、どこであろうとも付いてきます!! 弱音も決して吐きません。ですから……っ」
なおをも言い募ろうとしたミレイを、ルルーシュは片手を上げて制した。
「……馬鹿だな、ミレイ。私たちを見限って、自由に生きれば良いものを。器用なお前のことだ。何不自由なく生きていけるだろうに。
本当に馬鹿だと、苦笑しながらもルルーシュは告げる。それに目の端に涙を溜めながらミレイは笑った。
「ルルーシュ様でも、存じ上げないことがおありでしたのね。私はずっと、馬鹿でしたわ」
笑顔で告げるミレイに、ルルーシュはそっと瞳を閉じると、座っていた椅子の背もたれへと寄りかかった。
「ミレイ」
「はい」
「ロイド・アスプルンドと連絡を取ってくれるか?」
「ルルーシュ様、それは……」
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが話があると」
目蓋を持ち上げたルルーシュと視線が交じり合う。無言の会話を交わし終わったミレイは、そっと頭を下げると部屋を再び後にした。
騎士は道化となり、道化は――
アッシュフォード学園の大学部施設の一角を、特派は借り受けていた。当たり前の話だが、大学部の敷地内とはいえ、軍の機密が扱われているため、借り受けている施設周辺には学生の姿は一切見られない。
唯一の例外とも言えるのは、特派が誇る第7世代ナイトメア・フレームランスロットのパイロットである枢木スザク。軍属の身でありながら、特派の仮住まいとなっている大学部に隣接されている高等部へと軍務がない限り通っているスザクは、いつも制服姿で帰宅していた。
いつも制服姿で帰宅するスザクに、特派の人間はアッシュフォード学園高等部の制服を見かけても、なんの違和感もなく、日常の一部として過ごしていた。だが、それは男子制服に限った話である。
この日、特派の仮住まいへと訪れたのは、アッシュフォード学園高等部の女子制服を纏った女性だった。
「おや〜? どうしたのぉ?」
周囲が騒然とする中、ロイドひとりだけが我関せずと椅子に座りながら、研究に没頭していた。騒ぎの原因である人物が近づいてきたことにより、渋々ながら顔を上げたロイドは首を傾げた。
騒ぎの原因となっていたのは、ロイドにとっては婚約者であるミレイ・アッシュフォードだった。ようやく顔を上げたロイドに、騒ぎの中心となっていたミレイはにっこりと微笑む。
「ロイドさんにお話があります」
「まあ、そうじゃなければ来ないよねぇ。それで、どうしたのぉ?」
「ここでは話は」
声を潜めたミレイは、そっとロイドの耳元へと顔を近づけた。
「無垢な紫水晶 について」
誰にも聞こえないように、声を潜めながらミレイは告げた。はっと、ロイドは大きく目を瞠る。
「――ミレイ嬢」
それは一体、どういう意味だと。ロイドは目を細めながら立っているミレイを見上げる。
「一緒に来ていただけますか?」
「行かないと言えば、僕は一生知り得ないということかな?」
目を細めたまま、一挙一動すら見逃すまいと注意深く観察するロイドの眼差しは、まるで獲物を狙う猛獣のように鋭い。それに怯むことなく、ミレイはロイドを見返した。
「そう思っていただいて構いません」
ざわめきが徐々に消えていく。ふたりの不穏な気配を感じ取った周囲が完全に静まり返るより先に、ロイドは座っていた椅子から立ち上がった。
「じゃあ行こうか、ミレイ嬢」
「――ロ、ロイドさん!」
エスコートするかのように、ロイドはミレイへと手を差し伸べた。慌てたのは周囲で様子を窺っていた特派の人間だった。
「何かなぁ?」
「け、研究はどうするつもりですか? まさか、放置して行くわけじゃあ……」
「そのまさかだねぇ。分からないことがあったら、セシルくんに尋ねてね」
再び周囲はざわめき出す。研究一筋で、ランスロットのこと以外には全く興味を示さず、興味のないことは全てセシルへと押しつけていたロイド。例え婚約者が尋ねてきても、これまでと変わらないと周囲は踏んでいた。どんな理由があろうと、研究は途中で放棄しないと。
周囲の予想に反して途中で研究を放棄したロイドに、天変地異の前触れかと特派の人間は恐慌状態に陥る。
「セシルくんにはミレイ嬢とデートしに行ったとでも伝えておいてくれる?」
「デ、デート!?」
絶句する目の前の職員へと手を振りながら、ロイドは慣れた手つきでミレイをエスコートする。それがまた特派の人間にとっては衝撃的だった。
「――それで、僕はどこに行けば良いのかな?」
特派の施設から離れ、すでに周囲が人がいないにも拘わらず、ロイドは声を潜めながらミレイへと問いかける。
「アッシュフォード学園高等部にあるクラブハウスへと」
「そこで、なにを聞かせてくれるのかな?」
「行けば分かります。ですが、おそらくはあなたがこの世で最も望むことを」
「僕が? それはまた、おもしろいことを言うね」
くすくすと笑うロイドの笑い声は、どこか虚しく聞こえた。
ああと、ミレイは思う。これは自分だ。主を失い、抜け殻となってもなお、生きなければならない成れの果て。
「――ひとつ、質問を良いですか?」
「どうぞ」
「どうして失ったあと、後を追いかけようとしなかったんですか?」
「君がそれを聞く?」
「私だからこそ、聞くんです」
同じ傷を持つ者同士。痛いほどに良く分かる絶望を知っているからこそ。
今もなお癒えない絶望を抱くロイドが、こうして普通に生きていることがミレイには不思議だった。あの時感じた絶望以上の悲しみを抱いたまま生き続けるなど、きっと自分なら耐えられない。
「それも、そうだね」
ふっとこぼれた笑みは、すぐ消えた。
「守れなかったから」
はっと目を瞠ったミレイは立ち止まる。ロイドはミレイを残して、なおも歩き続ける。まるで、立ち止まることは許されないのだと言うように。
「死ねば確かにあの方に会える。でも、死んだ理由を知れば、きっとあの方は泣いてしまうから」
バカと、舌足らずにののしって。泣きながら、きっと自分よりも大きな体を抱きしめてくれるだろう。でもと、ロイドは言う。
「守れなかったからこそ、あの方を泣かすものは絶対に許せない。例えそれが、自分自身であったとしても」
ようやく立ち止まったロイドは振り返り、首を傾げながらミレイへと問いかけた。
「君は、どうして?」
「――私が、生きていたから」
聞き覚えのない少年の声。それに、ロイドは大きく目を瞠った。