テラスに置かれた木製の椅子に座りながら、ルルーシュはひとり考えにふけっていた。木々のざわめきや鳥のさえずり、風の音に混じって聞こえてきた小さな足音に、ルルーシュは閉じていた瞳をゆっくりと開く。現れたのは、希有な紫水晶 ――。
「――ミレイか」
「お休みのところ申し訳ありません、ルルーシュ様」
声をかけられたミレイは、スッとテラスへと姿を現す。普段の姿からは全くかけ離れた態度に驚く素振りすら見せず、むしろ当然のようにルルーシュはそれを受け入れた。
「なにがあった?」
座っていた椅子の背もたれに預けていた背中をゆっくりと起こしたルルーシュは、頭を下げているミレイへと問いかける。
アッシュフォード学園のクラブハウスの一角を改築して作られた部屋に、ルルーシュは妹のナナリーと共に暮らしていた。足と目が不自由なナナリーは寮で暮らすには難しく、学園側の好意でクラブハウスの一角を改築し、ふたり一緒に暮らしているというのが表向きの理由だ。もちろんそれも理由には含まれているが、最大の理由はルルーシュたちの身分にあった。
七年前、ブリタニア軍がエリア11へと名前を変える前の日本へと侵攻した際に亡くなったはずの神聖ブリタニア帝国第7皇子ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア――それがルルーシュの本当の名前だ。
八年前に母であるマリアンヌが暗殺されたことにより、ルルーシュたちは最大の後見を失った。皇族といえど後ろ盾を失った者の立場は弱い。当時緊張状態にあった日本との関係回復のための人質として、ルルーシュたちに白羽の矢が立ったのは当然の成り行きだった。
留学という名目で人質として送られてから一年後、ブリタニアは日本へと牙を剥いた。皇族ふたりを人質にとっていた日本にとっては、まさに青天の霹靂だっただろう。だがルルーシュに驚きはなかった。当然の結果だと、受け入れた。
ブリタニアにおいて、人質など何の障害にもならない。例えそれが皇族であったとしても、ブリタニアの国是の前では等しく無意味だった。
なんとか生き残って国に帰還することができたとしても、待っているのは使い捨ての駒という役目だ。最大の後ろ盾を失った自分たちは、死ぬまで使い捨ての駒という役割しか与えられない。ならばと、混乱していた戦況を利用して、ルルーシュは死を偽造した。
死ぬまで利用されるというのならば、死んでしまえばいい。好都合にも戦況は混乱しており、死を偽造するのにこれ以上都合が良い環境はなかった。戦場では死体が見つからないことはよくあることで、それすらもまた都合が良かった。
皇族としての立場を捨て、一市民となったルルーシュたちだったが、常に危険と隣り合わせにいた。死を偽造したとはいえ、いつ何時自分たちの身分が明らかになるか分からない。生きている限り、正体を知られる可能性は決して消えない。もしも正体を知られたとき、再び使い捨ての駒として利用されるのは目に見えていた。ひっそりと、誰にも正体を知られないように生きるしか、ルルーシュとナナリーは平穏な日々を暮らしていく術はなかった。
住居となっているクラブハウスの一角は、寮に比べてセキュリティが頑丈だ。とはいえ完璧なものではなく、万が一を考えて、学園の生徒であったとしても、住居となっているエリアへ近づくことをルルーシュは嫌っていた。ナナリーを不安にさせないためにそれを口に出したことはないが、感づいている節がミレイにはあった。
滅多なことでは訪ねないミレイの訪問に、厄介ごとが持ち上がったことを知る。ただし慌てた様子のない態度から緊急なものではないのだろう。
「私がお祖父様の命令でお見合いをしていることはご存じだとは思いますが――」
「――なるほど。まずい相手との縁談が持ち上がったか」
くすくすと笑いながら問いかければ、ミレイは鋭く息を呑んだ。全てを言う前に言い当てられて緊張した面持ちのミレイへと、緊張を解くようにとルルーシュは微笑みかける。
「それで、相手は誰だ?」
「シュナイゼル殿下直轄部署・特別派遣嚮導技術部主任ロイド・アスプルンド伯爵です」
「それは、また……」
久しぶりに聞く懐かしい名に、ルルーシュは目を瞠る。まさかこんな場所で再び聞くことになるとは思っていなかったルルーシュは、軍人からいつの間に転向したのだと思いながらも、特に深く考えることはしなかった。
「道化師か」
「道化師、ですか?」
「ああ、そうだ。気をつけろ、ミレイ」
「ルルーシュ様?」
思い出すのは、幼少期の思い出。優秀でありながら、いつだって彼は道化を気取っていた。人の表面しか見ない人間はいつだって彼を嘲り、気がついたときには失脚している。ある意味最も侮ってはいけない相手だった。
「道化師に食われないように、な」
くすりと笑いながら、ルルーシュはミレイへと忠告した。
偽りの騎士と道化
皇族や貴族であれば、政略結婚は至極当然のことだ。アスプルンド伯爵家当主であるロイドもまた政略結婚については否はないが、いまだに独身だった。周囲はそろそろとせっつくが、妻を持ったとしても相手にしている暇などなかった。何度も持ち上がる見合い話を、これまでは仕事を理由にロイドはずっと断り続けていた。
神聖ブリタニア帝国宰相たるシュナイゼル直轄部署の主任。仕事を理由に見合いを断るのに、これ以上都合の良い立場はなかった。すでに数えることを放棄した何度目かの見合い話もまた、ロイドは断るつもりだった。見合い相手がアッシュフォード家――ただひとり主と望んだ無垢な<RUBY><RB>紫水晶</RB><RP>(</RP><RT>アメジスト</RT><RP>)</RP></RUBY>の後見だった家の令嬢だと聞いた瞬間、気がつけば頷いていた。
かつて貴族だったとはいえ、今のアッシュフォード家はただの庶民。後から断ることなどいくらでもできだが、ロイドは断ることなく見合いを受けることにした。まだ彼らが貴族だった頃、王宮で何度かアッシュフォード家の令嬢を、遠目からだったが見たことがあったなと当時の記憶をロイドは思い出す。記憶が確かなら、彼女は元婚約者候補のひとりだったはずだ。
「――ドさん……ロイドさん…っ!」
「うへぇ? ――ああ、セシルくんかぁ」
「セシルくんかぁ、じゃありませんよ。来ましたよ、お見合い相手」
しっかりしてくださいと、セシルは椅子に座るロイドを見下ろしながら叱責する。
「本当〜?」
「はい。ですから、早く準備を――」
「――セシルくん」
そういえばと、先日の一件を思い出したロイドは目を細めながら、普段からは想像できない真剣な声でセシルの名前を呼んだ。
「はい」
一気に緊迫した雰囲気に、居住まいを正したセシルは息を呑む。普段から道化師のように自分を偽るロイド。内に飼う獰猛な獅子を隠すために、ロイドはあえて道化という仮面を被る。時折、ふとこうして現れるロイドの本性は末恐ろしく、セシルは身震いする。何度体験しても、いまだにロイドの本性に慣れることはなかった。
「話しちゃったんだねぇ〜」
ふと穏やかな笑みをロイドが浮かべた瞬間、緊迫した空気が霧散する。普段の道化へと戻ったロイドに、詰めていた息をセシルは吐き出す。それをどこか楽しげに、ロイドはセシルは見上げた。
「すみません」
「良いよ、謝らなくて。別に隠していたわけじゃなかったし。周りが勝手に誤解してただけだから」
隠していたわけではなかったが、わざわざ吹聴して回ることもしなかった。なにも言わずにいた結果、周囲が勝手に誤解していた。軍人となり、目を瞠るような功績をいくつも立てたのは、シュナイゼルの騎士になるためだと。その噂を聞いたとき、ロイドは身の毛がよだつ思いを心底味わった。なぜあんな腹黒い、化けの皮を被った男に忠誠を誓わなければならないのかと、噂を聞いてすぐにシュナイゼルへと噂の内容と、その時抱いた感想を告げれば、鼻で笑われた。
『私もお前の忠誠などほしくない』
外へと出れば、女性からの熱い視線が集中する美貌へと笑みを浮かべながら、
『お前が私に忠誠を誓った瞬間、その頭を撃ち抜いてやるから安心しろ、ロイド』
忠実な部下たちが聞けば、卒倒してしまうような物騒な言葉をシュナイゼルはロイドへと告げた。それでこそ自分がただひとり認める友だと思いながら、どうか絶対、こんな醜悪な男にだけはならないでくださいと、まだ小さな無垢な紫水晶 へとロイドは願ったものだった。
「ところで、名前は教えたの?」
「いいえ。でも――」
八年前、留学という名目の人質として、まだ幼い皇族の兄妹が日本へと送られた。日本最後の首相となった枢木ゲンブの元へと。
七年前に亡くなった小さな無垢な紫水晶 が喜びそうなナイトメアをと、それを心に刻みつけて作り上げた、この世にただひとつだけの『騎士』。まさか無垢な紫水晶 のためだけに作り上げた『騎士』へと、枢木ゲンブの息子――枢木スザクが搭乗することになるとは、ロイドは夢にも思っていなかった。
運命とは、なんという皮肉だろう。本当に、もしも神という空想の産物が本当に実在していたとしたら、神とはなんと残酷で、気まぐれな生き物なのだろうか。
「七年前に亡くなった、シュナイゼル殿下の異母弟君とだけ」
「セシルくんも、意地悪だねぇ」
口の端を持ち上げながら、ロイドは笑う。
七年前に亡くなった、ロイドが唯一主にと願った無垢な紫水晶 。神聖ブリタニア帝国において、その年に亡くなった皇族は八名。内、シュナイゼルの異母弟に当たる皇族はただひとり――。
「それだけのヒントをあげれば、調べたらすぐに名前なんて分かるだろうに」
それこそ貴族ならば誰でも知っている情報だ。調べずとも、ユーフェミアに一言告げれば、その相手が誰なのか即座に判明する情報。
「スザクくんは調べないと思いますよ」
「ふ〜ん」
興味ないやと反応の薄いロイドに、セシルはおだやかに微笑む。
「やさしい子ですから。――それより」
「ふぇ?」
急に変わった声音に、ロイドは顔を上げる。にっこりと笑うセシルに、ロイドは嫌な予感を抱いた。
「お見合いです、ロイドさん!」
小気味いい音が、周囲へと響いた。
ルルーシュの警告に緊張しながら待っていたミレイは、現れたロイドの姿に思わず肩の力を抜いた。現れた見合い相手は、どこからどう見ても、どこか抜けた科学者にしか見えない。ルルーシュが忠告するほど気をつけなければならない相手とはとても思えなかった。だが、王宮に住み着いた分厚い化けの皮を被った化け物を常に相手にしていた相手だけに、油断は禁物とミレイは気を引き締める。
「初めまして。ミレイ・アッシュフォードです」
「久しぶりだね、ミレイ嬢」
懐かしそうに目を細めながら、口の端を持ち上げたロイドに、ミレイは思わず後ずさる。恐ろしいと、その瞳を見つめた瞬間そう思った。ミレイのただひとりの主ほどではないが、目の前の男もまた、数え切れないほどの修羅場をかいくぐってきたことがその瞳から窺える。冷酷な瞳をしながら笑うロイドに、ようやくミレイはルルーシュが告げた言葉の意味を理解した。
「……あのっ」
まるで旧知と久しぶりに会ったかのようにロイドは挨拶してきたが、記憶が確かなら、過去に一度も会話を交わしたことはなかった。王宮で何度かすれ違ったことや、遠目から眺めたことはあったが、名乗り会ったことは一度もない。記憶違いだったかとミレイは戸惑う。
「ああ、久しぶりって言うのは少し語弊があるかぁ。王宮で何度かすれ違った程度だし」
「覚えておいででしたか」
ロイドの言葉に、ミレイは納得する。そして、まさか覚えていたとは思ってもみたかったミレイは、ほんの少しだけ驚いた。かつてアッシュフォード家もまた伯爵位だったとはいえ、アスプルンド家に比べて格式は低い。貴族社会において格式の低い相手のことなど眼中にないのが一般的だ。格式の低い小娘のことを、当時はアスプルンド家次期当主だったロイドが覚えていたことは、驚き以外のなにものでもなかった。
「もちろん、覚えていたよ。アッシュフォード伯爵家のことは、当時から色々と調べてたからね」
「アスプルンド伯爵は、ご冗談がお好きなんですね」
伯爵家と、すでに剥奪されて久しい爵位で呼ばれたミレイは朗らかに笑う。内心では酷く緊張しながらも、それを表に出す愚をミレイは犯さない。少しでも動揺すれば、そこからなにをつかまれるか分からない。
爵位を奪われ、庶民となったアッシュフォード家では幼い主たちを守り抜くことはできない。だからこそ作った箱庭。誰も――まだ幼い主たちへと危害を加える者を近づかせないための防壁。今はまだ、戦えない。せめてもう少し主たちが成長し、力を付けるまでは感づかれるわけにはいかなかった。爵位ほしさに孫娘へと何度も見合いをさせる祖父を、流石のミレイも、この時ばかりは憎まずにはいられなかった。
「ロイドで良いよ。でも、そうだねぇ、没落したとはいえ流石はアッシュフォード家のご令嬢」
「なにをおっしゃっているのか分かりませんわ」
「あはは、良いねぇ。傷の舐め合いってあんまり好きじゃないんだけど、君相手なら良いかもねぇ」
「はい?」
心底楽しげに笑うロイドに、ミレイはいぶかしげに顔をしかめる。
「ねえ、僕と結婚しない?」
「…………本気ですか?」
会ってまだ数分しか経っていない相手に結婚を申し込むロイドに、ミレイは戸惑いの声を上げる。貴族社会において政略結婚は当たり前のことだ。幼少期は貴族だったミレイもまた、会ったことのない相手との政略結婚について覚悟していた。だが、まさか会って数分の相手から結婚を申し込まれることは、想像すらしたことがなかった。
「本気も本気。君相手なら、あの方の話も弾むかもしれない。下手な女性と結婚して、仮面夫婦を偽るより、ずっと良い」
獣を思わせる残酷で冷酷な瞳を細めながら、ロイドはどこか遠くを見つめる。端から見ている側が切なくなるような眼差しに、ミレイは戸惑った。あの方とロイドが呼ぶ人をミレイは知らない。ロイドと共通する知り合いも思い浮かばず、接点はどこにも見受けられなかった。
「あの方とは……?」
嫌な予感が胸を掠める。聞いてはいけないと思いながらも、聞かずにはいられない。まるで、甘美な誘惑のよう。
「――ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア殿下」
甘く、囁くように。愛おしさを隠さないロイドに、ミレイは息を呑む。どうしてと目を瞠るミレイへと、ロイドは静かに微笑みかけた。
「ルルーシュ殿下の婚約者候補のひとりでありながら、君はいつだってあの方の騎士だった。それこそ、周囲の府抜けた護衛たちよりも立派な」
「あなたは、ルルーシュ殿下の……」
「何も多くは望まなかった。ただあの方の騎士になりたいと。それだけのために、必死で十年もの間頑張ってきたというのに……っ」
どうしてと、ロイドは叫ぶ。それはミレイもまた同じだった。必死で守り続けていたのに、呆気ないほど簡単に、主たちは奪われた。
「だから、軍を辞めたんですか?」
艶やかに。いっそ潔いほどに。
ロイドは微笑んだ。