「仲良くしてね」
産まれて間もない赤子を抱きながら、穏やかに微笑む女性は母親だった。
庶民でありながらその実力からナイトオブランズとなった生粋の軍人だったマリアンヌ。忠誠心とその美貌から皇妃へとのし上がったマリアンヌは、傾国の美女とも謳われるほどに美しい。過去に何度か悪友であるシュナイゼルと共に、ロイドはマリアンヌを遠くから眺めたことがあった。その時は遠目からでもはっきりと分かる美貌に感心しつつも、それ以上の感情を抱くことはなかった。そんな女性が見せた母親の姿に、ロイドは思わず息を詰める。
努力とは無縁な生活を送り、望めば全てが手に入る立場ゆえに、人生など容易いものだとロイドは思っていた。緊張とはほど遠く、それこそひょうひょうと今まで生きてきた。悪友であるシュナイゼルと出会ったときでさえ態度を変えることのなかったロイドは、穏やかに微笑むマリアンヌに、息を詰めながら気がつけば頷いていた。
「あの……っ」
引きつるような痛みに、喉が渇いていることにようやくロイドは自覚する。けれどそんなことなどどうでも良いと、声が裏返るのをこらえながら、ロイドはマリアンヌへと問いかけた。
「お名前は……」
腕に抱く赤子と仲良くしてねと告げたは良いが、マリアンヌはいまだ我が子の名前をふたりへと教えていなかった。まあと目を瞠ったマリアンヌは、くすくすと楽しげに笑う。
「ごめんなさい、肝心なことを忘れていたわね」
ぴくりと、マリアンヌの腕の中で眠る赤子の目蓋がかすかに動く。
「ルルーシュというの」
名前を呼ばれた赤子は、ゆっくりと目蓋を上げる。ぱちりと開かれた瞳はマリアンヌへ、次いでロイドへと向けられた。その瞬間、ロイドの心を奪われた。
悪友であるシュナイゼルと同じ、紫水晶 の瞳。けれど、シュナイゼルとは違い、澄んだ瞳。どんな高価な宝石でも、敵わない美しい紫水晶 にロイドは魅入る。
「……ルルーシュ殿下…」
出会いは、12歳の時だった。
主を失った騎士
努力など、無縁だった。全力などという言葉は、ロイドにとっては失笑の対象だったのに。
息を切らしながら、ロイドは王宮を全力疾走で走る。途中何度か叱責を受けたが、ロイドの耳に入ることはなかった。嘘だと、冗談だと、届いた知らせを心の中で否定しながら、ロイドはただ必死に目的の場所へと急ぐ。
色とりどりの季節の花が常に咲き誇り、いつだって穏やかな雰囲気が漂っていたアリエスの離宮。華やかな花々だけではなく、野に咲く花もまたひっそりと咲くアリエスの離宮は、およそ皇妃が住まう離宮とは思えないほどに質素だ。流石庶民出の皇妃と嘲笑する者もいるけれど、好んだ者も少なくはない。
あの穏やかなアリエスの離宮を訪ねれば、ただひとり主と認めた紫水晶 がいつものように笑顔で出迎えてくれるとそうじながら、アリエスの離宮へと足を踏み入れたロイドは、無惨なほどに荒れ果てた姿に愕然とする。色取り取りの花が咲き誇っていた庭は無惨に踏み潰され、建物にははっきりと分かる襲撃の跡が残っていた。人の気配すらすでに残されていないアリエスの離宮に、ロイドは膝をついて崩れ倒れる。
どれぐらいそうしていただろうか。無惨なまでに荒れ果てたアリエスの離宮を、ただただ呆然と見上げていたロイドは、背後からゆっくりと近づく気配に振り返る。
「…………これは、一体……」
なんだと。あの美しかったアリエスの離宮はどうしたと。無垢な紫水晶 はどこにいると。立ち上がって詰め寄るロイドに、シュナイゼルは苦しげに歪めた顔を背けた。
「聞いた、通りだ」
「じゃあ、本当に……」
マリアンヌ皇妃の死と共にもたらされたもうひとつの報告がロイドへと届けられたのは、全てが終わった後だった。軍人として戦線に出ていたロイドにとって突然すぎる報告は受け入れられるものではなく、自らの目で確認するまでは信じられないと、持てる権力全てを使い、早々に戦場を後にした。軍人としてはあるまじき行為。けれど、そんなことを気にしていられる余裕などロイドにはなかった。
すでに人の気配もなく、無惨な姿のまま放置されたアリエスの離宮に、大切に慈しまれた無垢な幼い兄妹が敵国へと送られた現実をようやく受け入れたロイドは再び膝から崩れ倒れる。慌ててロイドを支えたシュナイゼルは、苦しげに言葉を吐き出す。
「すまない、ロイド。お前が不在にしている間、私があの子を守ってやると約束をしたのに」
守れなかったと、シュナイゼルは力なく項垂れる。
生まれ落ちたときから強者であり続けたシュナイゼル。敗北したことなど一度もないシュナイゼルはいつだって傲慢だった。常に他者の上に立ち、指導者であり続けたシュナイゼルは、ロイドにさえも弱った姿を一度も見せたことはなかった。
初めてシュナイゼルが見せた弱った姿に、ロイドはなにも言えなかった。性格に難があると自他共に認めるロイドをシュナイゼルが傍に置くのは、同類だからだ。シュナイゼルもまた、ロイド同様に努力など無縁なものだった。奔走することもなく、帝国宰相という地位まで登り詰めたシュナイゼルが、幼い兄妹を守るために全力で奔走したのだと、その姿を見てなくとも容易く想像がついた。
「父は、ふたりを見捨てた。今の私では、どうすることもできない」
敵国からふたりを呼び戻すことも、救い出すことも。帝国宰相という実質神聖ブリタニア帝国のナンバー二という立場であったとしても、シュナイゼルの地盤はまだ完全には固まっていなかった。いまだに脆い立場にある状態で強固に反対すれば、瓦解する恐れもある。なにより、ふたりを敵国へと送ることを決定したのは他の誰でもない神聖ブリタニア帝国皇帝シャルル・ジ・ブリタニアその人。命令を覆せることなど、どの道できなかった。
「でも、まだあのお方は生きているんでしょう?」
なら、まだ希望はあると。縋りつくには小さな希望だとしても。己を何とか奮い立たせて、ロイドは立ち上がった。
一年後――。
日本はエリア11と名を変えられ、ロイドは無垢な紫水晶 を永遠に失った。
――この命に代えましても、ロイド・アスプルンドがお守りします、我が君。
それは、十年前に誓った誓約。