深海に眠る





















 扉を開ければ、真っ暗な部屋の様子に、知らず笑みが零れる。
 真っ暗な部屋の様子に、なぜ絶望するのだろう。
 分かりきっていたことではないか。
 分かっていて、全てを仕掛けて、あの日家を出たのではないのかと。
 レイを拾った日から、帰れば電気がついている生活にいつのまにか慣れてしまった自分の愚かさに、笑いたくなる。
 いつか必ず、手放す日が来ると最初から知っていたのに。
 レイを手放したのは、他の誰でもない、自分自身なのに。
 こうして目の前に突きつけられた今、足下から崩れそうなほどの絶望感に襲われる。
 どうしようもないと笑いながら、グラハムは真っ直ぐにシンクへと向かう。
 側に置いてあったコップに水を注ぎ込み、煽るように飲み干して、自分が飢えているのだとグラハムは気がついた。
「全く……」
 ふっと笑いながら、コップを戻そうとして、できなかった。
 いつもなら、誰かが側に近寄れば気づくのに。
 銃口を背中に当てられるまで、何者かの接近に気づかなかった。
 これでは軍人失格だなと、心の隅で笑いながら、グラハムはゆっくりと両手を上げた。
「誰だい? 何の目的でこんなところに侵入した?」
 隙あらば、拳銃を奪い取ろうと神経を研ぎ澄ます。
 普通なら敵意や殺意を感じておかしくないのに、なぜか相手からそう言ったものは一切感じられない。
 何も答えない相手に、流石に不信感を抱き始めた頃、背中から銃口が離れた。
 その隙を狙って相手から銃を奪おうとして、できなかった。
 振り返り、相手が誰なのか認めた瞬間、グラハムは凍り付く。
「……っ」
 まさかと、グラハムは目を瞠る。
「不用心だな、グラハム。俺が記憶を取り戻した時、命を狙われるかもしれないと考えなかったのか?」
「それは、考えなかったな」
 苦笑しながら、向けられた銃口をグラハムは見つめる。
 どこで手に入れたのか、ユニオンでは扱っていない殺傷能力がある銃に、けれど、不思議と恐れはない。
「記憶が戻ったんだね、レイ」
 以前とは違う口調。
 そして、アザディスタンで見た時と同じ鋭い眼差しはレイとは似ても似つかない。
 記憶を取り戻した時と告げられた言葉が決定打だった。
「ああ。あんたが置いていったガンダムの資料を見た瞬間、全てを思い出した」
「……そうか」
「それだけか?」
「命乞いは趣味ではないんだ。できることなら、殺すなら、ひと思いに頼む」
 記憶を取り戻したとはいえ、目の前にいるのはレイだ。
 レイにだけは、無様な姿はさらしたくはない。
 それに、レイに殺されるのも案外悪くもないかもしれない。
 そう、誰よりも愛した子に殺されるのなら、本望だ。
「……やっぱりあんたは残酷だ、グラハム」
 銃口を向けたままだった銃を、レイは慣れた手つきでしまう。
 まるで殺す気など最初からなかったというように。
「私を、殺さないのかい?」
 戸惑いがちに問いかければ、逆に問いかけられた。
「殺して、どうする?」
「私は君の秘密を知ってしまった。ソレスタルビーングにとってそれは、不味いんじゃないかい?」
「あんたは誰にも話さない。絶対に」
「どうしてそう思う?」
「話すような奴なら、俺が記憶を取り戻す協力をしたり、逃げ出しやすい環境を整えたりしない」
 確かにと、グラハムは頷いていた。
 わざわざ記憶を取り戻す環境を整えてから、任務とはいえ、3日も家を空けて。
 レイの立場なら罠ではないかと不審に思えるほどの環境を整えておいて、今さら誰かに秘密を打ち明けるような真似などできるはずがなかった。
 できるはずも、ない。
「私を殺さないと言うのなら、どうしてここに戻ってきた? 君のことだ。昨日の夜、あの男の元へと行ったんだろう?」
「……やっぱり、知っていたんだな」
「昔、興味本位で読唇術を習ったことがあってね。習わなければ良かったと、過去の自分を随分と恨んだよ」
 レイに隠し立てするつもりなど、グラハムにはなかった。
 記憶を取り戻した今、何もかもレイは気づいているはずだ。
 この期に及んでまだ隠し立てする必要などないと、グラハムは全てを打ち明ける。
「これでも散々悩んだんだ。君をこのまま、私の手元に置いておきたいとね。でも、それは無理な話だ。一般市民である未成年の子どもをずっと手元に置いておけるわけがない。今回の件が片づけば、レイはどこかの施設に預けられることになる。なら、いっそのことと、そう思っただけだ」
 どんな結末を迎えても、いずれレイを手放さなければならないのなら。
 記憶を取り戻したレイが、幸せだと思える道をと。
 散々悩んで、出した答えがそれだった。
「今さらこんなことを言うのは狡いのかもしれないが」
 本当は、もっと早くに言うべきだった。













「……愛しているよ、レイ」













 記憶を取り戻しても。
 愛しているのだと。
 囁くように告げれば、小さな躰が抱きついてきた。
「……どうして…っ」
 もう一度、どうしてと。
 小さな躰を震わせながら、レイは叫ぶ。
「今さら、今さらそんなことを言うんだ、グラハム……!?」
 ついには泣き出したレイを、グラハムはそっと抱きしめる。
「………あんたを憎めたら楽なのに、なのにあんたは、憎ませてくれない……っ!」
 優しさは時に残酷なのだと。
 先日カタギリに言われた言葉を、思い出す。
 あの時は、その意味が分からなかった。
 泣き出してしまうほどに苦しんでいるレイの姿に、今ならその意味が分かるような気がする。
「………なんで、なんで…っ」
 ひくりと、嗚咽をもらすレイを、ギュウッと抱きしめる。
「……グラハム、あんたが好きだ」
 小さな、呟きだった。
 それをしっかりと聞き取ってしまったグラハムは、それまで堪えていたものが溢れ出すのを感じた。
 世界など、ユニオンなど、友など、関係ないと。
 今なら全てを捨て去ることも、容易な気がした。
「……レイ、私は――」
「――駄目だ、グラハム。その先を言ったら、いつかきっと、あんたは後悔する」
 目を真っ赤に腫らしながら、素早く両手で口を塞いだレイと視線が絡まる。
 1分か、1秒か。
 それとも、10分以上か――。
 どれぐらいか分からないほど見つめ合った後、どちらともなく唇を重ね合わせた。
 すぐに離れていった唇に名残惜しい気持ちになりながらも、グラハムはレイを離した。
「――ソランだ」
「えっ?」
「ソラン・イブラヒム。それが俺の、本当の名前だ」
「……良いのかい、私にそんなことを教えて?」
 ソレスタルビーングという秘密だらけの組織に置いて、名前もまた極秘扱いなど珍しくない。
 名前ごときなどと言っても、そこから情報が漏洩することなど珍しくはなかった。
「あんたは、誰にも言わないだろう?」
「ああ、言わないよ」
 誰にも、決して言わない。
 例えどんな拷問を受けることになろうとも。
 今まで隠し事をしたことのないカタギリ相手にも。
「……もう、行かないと」
 無理を言って、ここに戻ってきたのだろう。
 慌てて立ち去ろうとするレイに、グラハムは咄嗟に腕を取っていた。
「グラハム、離せ」
「嫌だ」
「グラハム……っ!」
「頼む。あと少しだけで良いから、話を聞いてくれ」
 まだ全てを話し終わっていないと。
 引き留めようとすれば、肩を震わせる。
「……俺がここに戻らなければ、別れの言葉すら言わせてくれなかったのに?」
「それは、すまなかった」
 改めて考えると、何も言わず、何も言わせず、別れようとしたことがどれほど残酷なことなのか、ようやく分かった。
 レイもまた、誰もいない部屋の中、こんな絶望を味わったのだろうか。
「ただ、聞きたいことと、言いたいことが1つずつある」
「……なに?」
「もう1つの名前を、教えてくれないかい?」
 はっと、目を瞠りながら振り返ったレイは、次の瞬間にはどこか納得した様子で笑う。
「読唇術、か」
「当たりだ」
 読唇術といっても、全てが読みとれるわけではない。
 名前など、短い単語は候補が多すぎて、読み取れないことが多い。
 あの日読み取ろうとして、結局は読み取れなかった名前。
「刹那・F・セイエイ。それが、ソレスタルビーングから与えられたコードネームだ」
「刹那……。そうか、刹那だったか」
「それで、言いたいことは?」




 目覚めたら、終わる恋。
 だから、目覚めないでと。




「深海に眠る君に、私は恋をした」




 願って。
 そして、散った儚い恋。




「でも、目覚めた今でも、愛しているよ、レイ」
 そっと腕を放せば、逃げるようにレイは駆け出した。
 その背を見えなくなるまで見送れば、堰を切ったかのように涙が零れ出す。
 最初で。
 そして、最後の恋をした。































 目覚めれば終わると知りながら。
 深海に眠る、君と。






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