深海に眠る恋
日本の経済特区・東京に建てられた高層マンションの25階――。
日本に置いての行動拠点であるその場所で、ロックオンはひたすら刹那の帰りを待っていた。
窓の外に映る景色は闇に包まれ、階下には光が点在する。
大都会そのものの景色をぼんやりと眺めながら、ロックオンはつい昨日のことを思い出していた。
* * * * * * * * * *
壁により掛かりながら、ロックオンは腕にはめている腕時計をじっと睨み付ける。
約束の時間まで、あと10分――。
まだ約束の時間まで10分あると、そう思いながら。
もう約束の時間まで10分しかないと、そう思いながら。
ロックオンは、待っていた。
ただ1人を。
「くそ……」
約束の時間になっても、刹那は来ないかもしれない。
記憶を失い、別の名前で暮らしている今の刹那にとって、ソレスタルビーングに戻るということは、今の平穏を手放すということだ。
例え記憶を取り戻しても、戻ってくるとは限らない。
けれど、記憶を失ってもなお、エクシアに反応した刹那に賭けるしかなかった。
エクシアに、ガンダムに魅せられ、若干14歳という若さでヴェーダに選ばれ、ガンダムマイスターとなった刹那を。
わずかな希望に縋り付きながら、刻一刻と迫る約束の時間に、祈りながらロックオンは待ち続ける。
「……刹那」
約束の時間である22時を、時計は指し示す。
周囲を見渡すが、どこにも人影らしきものは見受けられない。
やはり駄目だったのかと、諦めかけようとしたその時、ふと目の端に何かが映ったような気がした。
もう1度周囲を見渡したロックオンは、驚きで目を瞠る。
ゆっくりと近づいてくる人影。
それは、良く見知ったものだった。
泣き出してしまわないのが不思議なぐらい、様々なものが胸に込み上げてくる。
「……刹那」
ただただ困ったように微笑む刹那に、胸がいっぱいになるだけで。
刹那がこの場所に来たら、絶対に言おうと思っていた言葉が、何1つ出てこない。
「なんて顔をしているんだ」
呆れ返った口調に、はっとロックオンは我に返った。
「刹那、お前……っ」
まさかと、息を呑むロックオンに、今度こそ刹那は呆れ返った。
「お前が言ったんだろう。記憶を取り戻したら来てほしいと。だから来た、ロックオン・ストラトス」
忘れたのかと、非難がましい視線を向けられてようやく、ロックオンは刹那を抱きしめた。
失ったと。
幼い頃に失った家族のように、刹那まで。
一度はそう思い、絶望しかけていたのに。
もう一度腕の中に戻ってきた存在を確かめるように、ロックオンは力加減を忘れて、刹那を抱きしめる。
「……なっ…ロックオン、苦しい!」
苦しそうに本気でもがく刹那に、ロックオンはますます拘束する腕の力を強める。
骨が軋むほど強く抱きしめるロックオンに、流石に力ずくで脱出しようかと考え始めた頃、刹那はもがくのを止めた。
「……刹那、刹那…っ」
切なくなるほどに、名前を呼ばれて。
刹那はそっとロックオンの背へと腕を回した。
「ただいま、ロックオン」
「……遅いよ、この馬鹿。今までどこをほっつき歩いていたんだ」
ソレスタルビーングにしか、もう居場所はないのだと。
帰る家は、どこにもないのだと。
いつか寂しそうに言った刹那に、なら俺がお前の帰る場所になってやると。
そう言ったのは、いつだっただろうか。
あの日から、帰ってくる刹那を出迎えるのがロックオンの役目になっていた。
「おかえりと、言ってくれないのか?」
せっかく帰ってきたのにと、背に爪を立てる野良猫に声をたててロックオンは笑う。
「おかえり、刹那」
髪を掻き上げて、額へとキスを1つ落としてやれば、満足そうに刹那は胸に顔を埋めた。
まるで本物の猫のような刹那に、自然と笑みが零れる。
「刹那、そろそろ――」
いつまでもここにはいられないと。
行こうと、そう言おうとして、焦った様子で名前を呼んだ刹那によって、それは遮られた。
「……刹那?」
どうしたんだと、俯いてしまった刹那に、顔を覗き込もうとして、それは拒否された。
「刹那……っ?」
「……あと、1日だけ」
「えっ?」
「あと1日だけ、帰るのは待ってほしい、ロックオン」
頼むと、そう言われて。
ロックオンは混乱する。
「なに言って……っ」
ここに来たのは、帰るためではないのかと。
自分たちの本来いるべき場所へ。
違うのかと、そう怒鳴ろうとして、できなかった。
まっすぐに見つめてくる刹那に、何かが冷めていくのを感じる。
「……自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「分かっている」
「あと1日待って、お前はどうするつもりだ?」
「……別れを」
たった一言。
そのたった一言で、ロックオンは分かってしまった。
伊達にこの2年間、誰よりも刹那の側にいたわけではない。
「…………ミス・スメラギには俺から言っておく。だが、待つのは明日までは。明日中に帰ってこなければ、分かっているな?」
どんな手を使ってでも、迎えに行くと。
有無を言わせず、連れて帰ると。
例え、別れを告げることができなくても。
期限は明日までだと。
「俺が帰る場所は、ロックオン、あんたの所だ。そうだろう?」
必ず帰ると。
そう言って、背を向けた刹那を、ロックオンは黙って見送った。
* * * * * * * * * *
カチャリと。
扉が開いた音に振り返れば、俯きながら肩を震わせ、扉の前に立ちつくしている刹那がいた。
「――刹那」
おいでと。
両手を広げれば、躊躇することなく刹那は腕の中へと飛び込んできた。
肩を震わせ、泣くのを堪えている刹那の背を撫でながら、無理矢理にでも昨日、連れて帰るべきだったかという迷いが生まれる。
「……ロックオン、ロックオン、俺は…っ」
その先は聞きたくないと。
そう思いながら、聞かなければ後悔することは目に見えていて。
ロックオンは黙って聞いた。
「あんたを、愛しているのに……っ!」
どうしてと、ついには泣き出してしまった刹那を、きつく抱きしめる。
「良いんだよ、刹那。それは、お前のせいなんかじゃない」
お前以外の、誰のせいでもない。
ただ、愛してしまっただけなのだから。
「俺を愛していてくれるのなら、それで、十分だ」
他の誰かを愛してしまっても。
それ以上に、愛してくれるのなら。
それで十分だと。
ようやく腕の中に戻ってきた刹那を、ロックオンはさらにきつく抱きしめる。
「十分なんだよ、刹那」
だからもう、泣くなと。
泣きじゃくる刹那の背を、ロックオンはずっと撫で続けた。
もしももう一度、深海に眠る君を見つけることができたなら、今度は――。
Fin.