深海に眠る





















 干し終わった洗濯ものをたたみながら、いつもなら見ないニュースを、その日は何気なくレイはつけていた。
 他に流れているのが通販番組というのもあり、ニュース番組を流し聞いていたレイは、ようやくたたみ終わった洗濯ものを抱えながら、立ち上がった。
『――次のニュースです』
 ちょうど良く次のニュースを告げるアナウンサーに、レイはふとテレビへと視線を向ける。
 洗濯物を抱えながら、映し出された映像にレイは魅入った。
 アナウンサーの声など聞こえない。
 まるで外界から遮断されたかのように、映像だけがリフレインする。
「………あっ」
 それぐらい、そうしていただろう。
 気づいたらニュースとは全く違うものがテレビには流れており、足下には抱えていたはずの洗濯物が散乱している。
 ニュースが終わったことにも、洗濯物を落としてしまったことにも気づかなかった自分に愕然としながらも、レイの意識はすでに別の場所へと移っていた。
 一昨日の夜、帰りは明日の夜になると言って、どこに行くのか告げずに出かけてしまったグラハム。
 まるで見ることを期待するかのように、テーブルの上に置きっぱなしにしたままのファイルを、レイは今の今までその存在を無視していた。
 手に取ることが、恐ろしかった。
 ただのファイルの筈なのに、恐ろしくて、近づくことすら怖くて。
 それなのに、今は空に向かって投げたものが重力に引き寄せられ、いずれ地面に落ちていくように。
 レイもまた、引き寄せられるように、ファイルを手に取った。
 恐ろしいという思いが消えたわけではない。
 その思いを上回る何かが、ファイルを開くことを要求する。
「……嫌だ…」
 開けたくないと、そう思うのに。
 開けろと、心の奥底で誰かが叫ぶ。
 ボロボロとこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、レイは心の奥底から聞こえる叫びのままに、ファイルを開いた。





「――――っ!?」





 レイの手から、ファイルが滑り落ちる。
「……どうして…っ」
 分かっていた。
「どうして……」
 分かっていたことなのに。
「…………どうして……っ!」
 思い出してしまった。
 名前も。
 己の立場も。
 全て、何もかも。


「――――――――――――」


 声にならない悲鳴が上がる。
 ついには膝から、レイは――否、刹那は崩れ倒れた。
 床へとうずくまり、思い出してしまった記憶に刹那は泣く。
 どうしてと、叫びながら。

 覚えている。
 レイという名前を付けて貰った経緯も。
 怪我で満足に動けない自分のために、グラハムに色々と手伝って貰ったことも。
 多すぎる服を買って貰った時のことも。
 日用品を2人で選んだ時のことも。
 怖い夢を見たと、1人で寝ることに怯えた自分のために、添い寝してくれたことも。
 20日にも及ぶ、グラハムとの生活を。
 何1つ欠けることなく、全て覚えている。

 切なくなるほどの優しい記憶の数々に、どうしてと刹那は嘆く。
「…どうして……どうして、優しくしたんだ、グラハム……っ!」
 記憶を取り戻した今、以前は首を傾げることしかできなかったグラハムの態度にも納得がいく。
 彼は気づいていたのだ。
 自分が、ソレスタルビーングの一員だと。
 ガンダムマイスターなのだと。
 気づいていながら、なぜ優しくしたのだと。
 ここにはいないグラハムを、刹那は詰る。
 思い出せば、切なくなるほどの優しさを知らなければ、ここまで辛くなどなかったのに。
「……グラハム…っ」
 ここにいたいと。
 ここにいようと。
 誰もまだ、記憶を戻ったことは知らないから。
 だからと。
 ここにいようよと、心の声――レイが叫ぶ。
 そんなレイを、刹那は必死に諭す。
「駄目だ、駄目なんだ……俺たちは、ここにいちゃ駄目なんだ、レイ」
 泣き叫びながら、どうしてと。
 ここにいたいと。
 懸命に訴えてくるレイに、刹那はかぶりを振る。
「ここにいたら、迷惑を掛ける。ソレスタルビーングにも、ロックオンにも……グラハムにも」
 その言葉に、レイは子どものように泣きじゃくる。
 それしか知らないように、グラハムと呼び続けながら。
 そんなレイの叫びを聞きながら、刹那もまた、泣き続けた。





 電気もつけずに、暗闇の中、刹那は膝を抱えていた。
 あれからずっと泣き続けた。
 枯れ果てたと思うほどに、もう1滴も涙は出ない。
 泣きすぎて痛み頭に額を押さえて立ち上がれば、ふらりとバランスを崩した。
 慌ててバランスを立て直した刹那は、ようやく床に散らばるファイルの中身に気がついた。
「あっ……」
 せめて落としてしまったものだけは片づけていこうと、落ちていた写真を1枚、刹那は拾い上げる。
 写真には、焦れて、求め続けてきたエクシアが写されていた。
「全部、知っていたんだな……」
 どうやって知り得たのかは分からないが、今日の夜迎えが来ることをグラハムは知ってしまったのだろう。
 だからこそあえて、明日の夜戻ってくると言ったのだ。
 記憶を失っていたとはいえ、敵である自分に優しくしながら、最後には何も言わず、言わせずに、手放そうとした優しい、けれど残酷なグラハム。
「どうせなら、最初から最後まで、優しくしないでほしかった」
 優しさなど知らなければ、今すぐにここを飛び出すことができたのに。
 それでも、出会わなければ良かったとは思わないのだから不思議だ。
「――6年前、ソレスタルビーングにではなく、あんたに拾われていたら……」
 今とは違った未来を見られたのだろうか。
 あり得ない未来を想像してしまった自分に、刹那は笑う。
「神なんて、いない……」
 分かりきったことなのに。
 6年前、身をもって知ったことなのに。
 なのになぜ。
 なぜと。
 枯れ果てたはずの涙が、こぼれ落ちる。






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