深海に眠る





















 レイの1日は、朝食を作ることから始まる。
 本来ならばそれはグラハムの役目だったのだが、近頃ではレイの役目と化していた。
 それというのも、近頃帰宅が明け方近くになることも珍しくなく、そう言う時は決まって昼頃に出勤するグラハムに、無理矢理その役目をレイが奪い取った。
 朝食以外にも、忙しいグラハムのために、近頃レイは率先して慣れない家事をこなしている。
 今日は溢れるほどに溜まってしまった洗濯物を洗ってしまおうと、レイは棚から洗剤を取りだした。
「あれ?」
 取りだした洗剤は、中身が空っぽだった。
 買い置きはないかと探してみたが、どこにもそれらしきものは見られない。
「どうしよう……」
 さて、困った。
 着る服には、グラハムが大量に購入してくれたお陰で、まだ困るような状態ではない。
 ただグラハムが仕事へと出かける際に着ていくワイシャツが心保たない状態だ。
 それに加え、いまや洗濯物は、洗濯機に収まりきらない量にまで増えている。
 迷ったのは、短い時間だった。
「今日は天気も良いし」
 干せば夕方までには乾くだろう。
 そう思ったレイの行動は早かった。
 グラハムから何かあった時のためにと渡されていた財布と部屋の合い鍵を持ったレイは、軍施設内に併設されているスーパーへと向かう。
 場所は地図で教えて貰っただけで一度も行ったことはないが、すでに基地内の地図は全て頭の中に入っていた。
 グラハムが滞在中借り受けた独身寮からはそう遠くもないスーパーへと歩きながら向かっていたレイは、途中で配達業者の制服を着た男性と擦れ違う。
 そのまま何気なく通り過ぎようとしたレイは、けれど、できなかった。


「――レイ」


 呼び止められたレイは、何の疑問も抱くことなく振り返る。
 警戒心を抱くこともせず、帽子を目深に被った配達業者の人間を見上げた。
「あの……?」
 何も言わず、ただ立ちつくしている男に、流石のレイも不信感を抱き始めた。
 どうしようかと、周りを見渡すが、自分たち以外の人影は見受けられない。
 帽子を目深に被っているため、顔色が読めない目の前の男に、どこかに助けを求めに行こうかと考えたその時、男は被っていた帽子を、わずかに上に上げた。
「……っ」
 どうしてと。
 驚きで目を瞠ったレイは、鋭く息を呑み込んだ。
「その反応は、記憶を失っても、俺のことは覚えていてくれたって、そう思っても良いのか?」
 あれは、単なる夢ではないのかと。
 夢の中にいつも現れる青年そのままの、目の前の男を、レイは呆然と見上げる。
「ああ、でも、そうなるとおかしいな。あの日お前は俺にも、そして、名前にも反応しなかったんだから」
「……な、まえ…?」
「5日前、買い物に出かけただろう?その時、すれ違いざまに」
 あれは気のせいではなかったのかと。
 5日前、グラハムとカタギリに当分の生活に必要なものを買って貰った日のことをレイは思い出す。
「……あんたは、誰だ? 俺のことを知っているのか?」
 あんたと。
 そう声をかけた時、傷ついた表情を浮かべた男性に、レイは胸が痛むのを感じた。
 いつも何か考え込んで、痛みを堪えているようなグラハムを見るたびに、それはどこか似ているような気がする。
「俺は、ロックオン。ロックオン・ストラトス。お前の……同僚だ」
「同僚?」
「そう。そしてお前は、刹那・F・セイエイ」
「刹那……」
 口にすれば、どこか耳に馴染んだ名前。
 けれどそれが、本当に自分の名前だという感覚はない。
「……やっぱり、記憶はまだ戻らないか?」
 縋るように尋ねる男性――ロックオンに、レイは首を横へと振る。
 失われた記憶は、何らかの切っ掛けで戻ることがあると、レイはカタギリから聞いていた。
 名前が分かれば、もしかしたらという思いがレイにもなかったわけではないが、やはり名前だけでは思い出せない。
(ああ、また……)
 そうかと、落胆したロックオンに、胸がチクリと痛む。
 どこか寂しげな姿に、気がつけば近づいて、ロックオンの頬へとレイは手を伸ばしていた。
「……刹那?」
 戸惑うように名前を呼ばれて、はっと正気に戻ったレイは、慌ててロックオンから飛び跳ねるように離れた。
 自分は一体、何をしたかったのか。
 もしも名前を呼ばれていなければ、間違いなくキスをしていた。
 無意識の己の行動を振り返り、俯いたレイは片手で口元を覆う。
「……刹那、良く聞いてほしい」
 静かでいて、力強いその声に、なぜあんなことをと混乱していたレイは、はっと顔を上げる。
「俺たちは1週間後、日本から離れる。流石にそれ以上はミス・スメラギが許してくれなくてな。だから、もし、もしも記憶を取り戻したのなら、1週間後の22時に、ここに来てくれ」
 手渡された紙切れを、レイは見下ろす。
 見ればそこには、住所と地図が描かれていた。
「記憶を取り戻さなくても、本当は来てほしいけどな」
 それは無理だろうからと。
 寂しそうにロックオンは笑う。
「……行けば、どうなる?」
「連れて帰る」
 決まっていると、ロックオンは断言する。
 それが当たり前だというように。
「どこに?」


「ソレスタルビーングに」


 信じられないと。
 目を瞠ったレイは、後ずさる。


 ――ソレスタルビーング。


 その名を、レイはカタギリから聞かされていた。
 武力によって紛争を根絶すると宣言した、施設武装組織。
 ユニオンの敵であり、今グラハムが戦っている相手と、教えられた存在。
 その名前がなぜと。
 信じられないものでも見るかのように、レイはロックオンを見つめる。
「ソレスタルビーングが何なのか、どうやら聞かされているみたいだな」
「どうしてだ? どうして俺を、ソレスタルビーングに連れて帰るなんて言う?」
 まるで。
 そう、まるで、自分はソレスタルビーングに所属しているような言い方をして。
 グラハムの敵であるソレスタルビーングに、自分が所属していたなど、あり得ないと。
 今すぐ耳を塞いで、全てを否定してしまいたかった。
「お前がガンダムマイスターだからだ」
「!?」
 ひゅうっと、レイは息を呑み込む。
「ソレスタルビーングにとって、ガンダムマイスターの存在は必要不可欠だ。替えがいないわけじゃないが、新しいマイスターを選抜するのにも時間はかかる」
 それにと、ロックオンは一旦言葉を切った。
 真摯なまでの眼差しに、ロックオンから目が離せられない。


「できることなら、俺はお前に戻ってきてほしい」


 最大の理由はそれだというように、ロックオンは言う。
 ソレスタルビーングなど関係ないのだと。
 そう言わんばかりに。
「1週間後、もしお前がこの場所に来なければ、お前はエクシアから下ろされ、マイスターではなくなる」
「エク、シア……」
 口にすれば、刹那という名前以上に、耳にも口にも馴染む。
「やっぱり、エクシアには反応するか。分かっていたとは言え、少し妬けるな」
 ふっとロックオンは苦笑した。
 エクシアが何なのかは分からないが、とても大切にしていたものだというのは、何となく分かる。
 それに対して妬けるというほど、自分はエクシアというものが大切だったのだろうか。

 目の前にいるロックオン以上に――?

「1週間後、来てくれるのを信じてる」
 そう言って、背を向けたロックオンに、レイは呆然と立ちつくすことしかできなかった。






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