深海に眠る





















 必要最低限の家具しか置かれていない部屋を、ロックオンはゆっくりと見渡す。
 滅多に使われていないとはいえ、物寂しさを感じる部屋に、刹那はいつも1人でいたのかと。
 そう思うと、胸が締め付けられる。
 日本にマイスターの誰かを潜伏させると決まった時、消去法で刹那が選ばれた。
 アレルヤとティエリアは論外。
 ロックオンに至っては年齢的に考えて、日中に仕事もせずに出歩けば不自然に見られるということで除外された。
 残るのは、刹那ただ1人。
 10代の子どもなら何もせず、日中に出歩いていたとしても誰も不自然な目で見ることはないだろうと。
 何より、白兵戦に置いては、刹那はマイスターの中とは言え、アレルヤの次に強い。
 消去法とはいえ、刹那以上の適合者はソレスタルビーングにはいなかった。
 選ばれた経緯を知っているとはいえ、初めて見た部屋に、ロックオンは後悔する。
 どうしてあの時――刹那が日本へと潜伏することが決まった時に、反対しなかったのだろうかと。
 反対していれば、こんな寂しい部屋で刹那が1人で過ごすことも、ましてやテロに巻き込まれることはなかったかもしれない。
 反対したところで、それが聞き入れられることはなかったかもしれないが、それでもと。
 思わずには、いられない。
「――ロックオン」
「ラッセか。ミス・スメラギから何か連絡は?」
 運命の悪戯か。
 それとも、単なる偶然なのか。
 ユニオンに保護されている刹那を、密かに救出するために日本へと潜伏したその日、擦れ違った1人の少年――。
 刹那と瓜二つの少年は、けれど、自分に気づくことなく通り過ぎていった。
 すれ違いざま、その名を呼んでみたが、反応もなかった。
 他人のそら似かと疑ってみたが、刹那を見間違えるなど絶対にあり得ない。
 擦れ違った少年は、誰が何と言おうと刹那だ。
 何か刹那の身にあったのかと、ロックオンはすぐにスメラギに対して調査を依頼した。
 あれから2日後――。
「ロックオン、落ち着いて聞けよ」
 調査が終わるまで、絶対に動き回るなと。
 刹那らしからぬ対応に疑問を抱いたスメラギは、ロックオンとラッセに対して、厳命した。
 当初、それにロックオンは抗ったが、刹那の命を危険にさらしても良いのかというスメラギの脅しに、従う以外にはなかった。
 今思えば、スメラギの厳命がなくとも、動き回ることはできなかっただろう。
 テロの目的を犯行グループがメディアを通じて発表したのは、2日前――刹那と擦れ違った日の夜のことだった。
 犯行グループはテロの目的と共に、犯行直前、ユニオンに対して犯行を予告していたことも発表した。
 お陰で、神経を尖らせているユニオンに、今は迂闊に近づけない。



「刹那には今、記憶がない」



 刹那を見間違えるなど、あり得ない。
 なら、刹那が自分に気づかなかったのはなぜなのか。
「……記憶…?」
「どうやら、テロの巻き込まれた際、頭を強く打ったらしい。その衝撃で、それまでの記憶を失ったようだ」
「じゃあ、刹那は今……」
「ソレスタルビーングに所属していたことも、ましてや俺たちのことすら覚えていない」
「……そ、んな……っ」
 喘ぐように、声を絞り出したロックオンに、ラッセは顔を歪める。
 刹那をこのまま、ユニオンに保護下に置いておくのはあまりにも危険だ。
 同時に、記憶を失っている刹那に、今この時期に接触を図ることもまた、危険すぎる。
 どうすれば良いと考えて、戦術予報士であるスメラギがこの事態に何も言わないはずがない。
「……ミス・スメラギはなんて?」
「接触は一度まで。それ以上は危険と判断し、帰還命令が出ている」
 一度だけとはいえ、あまりにも危険な行為である接触を許可したスメラギもまた、信じられないのだろう。
 刹那が、何もかも全て、記憶を失ってしまったということに。
 このまま何もさせず、帰還しろと命じたところでロックオンが従わないこともまた、スメラギは理解した上で、危険だと知りながらも与えたチャンスは一度。
 それ以上は許されない、ギリギリの妥協点を提示されたロックオンは、拳を握りしめた。









* * * * * * * * * *










 難しい顔をしながら、問題集を睨み付けているカタギリに、おやとグラハムは首を傾げる。
「レイの成績は、それほどまでに悪いのか?」
 カタギリがレイのために買った問題集。
 グラハムでさえたじろぐ量をようやく一通り解き終わったと、涙を浮かべながらレイが抱きついてきたのは昨日のことだ。
 その解き終わったばかりの問題集を睨み付けながら、今にも唸り声をあげそうなほど難しい顔をカタギリはしていた。
 グラハムが単純に、出来が悪かったのだと思いこんでも不思議ではない。
「その通りでもあるし、その逆でもある」
「?」
 意味が分からないと顔をしかめるグラハムに、各問題集の正解率を載せた紙をカタギリは手渡した。
「……なるほど」
 苦々しげに、グラハムは頷く。
 書かれている正解率は見事なまでに、得意科目と苦手科目が分かれている。
 中間が1つないというのもまた面白い。
「試しに僕が作ったこれを解かせてみたら、見事に全問正解だったよ」
 なぜか隠し持っていた紙をカタギリから受け取ったグラハムは、目を瞠った。
「カタギリ、これは――」
「分かっているよ。すぐにでも火で燃やして証拠隠滅を図るから、内緒にしていてくれ」
 唸り声を上げながらも、グラハムは渋々ながらに頷くと、2枚の紙をカタギリへと返した。
 内1枚――問題が書かれている紙を、近くに置かれていた灰皿へと投げ捨てたカタギリは、持っていたライターで火を付ける。
 ほんの数秒で燃え尽き、灰へと変わってしまった紙をしばらく眺めていたカタギリは、重くなった口を開いた。
「グラハム」
「なんだ?」
「君はもう、とっくに気づいているんだろう?」
 静かに問いかけるカタギリに、グラハムは目を瞑る。
 カタギリがたった今燃やして、灰へと変えた紙に書かれていたのは、モビルスーツを操縦、整備している者ならば知らなければおかしい問題だった。
 ある意味モビルスーツに携わる者なら常識とも言える問題をなぜ、レイのような年頃の子どもが解けたのか。
「……夢を、見ると言っていた」
 1人グラハムの帰りを待っているであろうレイ。
 近頃――買い物に出かけた日から毎日のように、同じ夢を見ると、どこか怯えた様子でレイが打ち明けたのは昨日のことだった。
「目を開ければ、なぜか水の中にいるそうだ。しばらくすると音が聞こえて、何気なく足下を見下ろすと、そこには硝子ケースに眠るもう1人の自分がいると」
「それは……」
「音は徐々に大きくなって、ひときわはっきりと聞こえたその時、硝子ケースに亀裂が走るそうだ」
「……っ」
 レイが見ている夢は、何を暗示しているのか。
 考えずとも、導き出される答えに、カタギリは蒼白になる。
 硝子は一見頑丈そうに見えるが、実際は脆いものだ。
 わずかな亀裂でも入れば、衝撃を与えるだけでそこから壊れていく。
 もう1人のレイが眠る硝子ケースが、壊れたその時――。
「ミイラ取りがミイラになるとは、良く言ったものだ」
「グラハム!」
 ふっと笑みを零したグラハムに、慌てて腕を取ったカタギリは、言葉を失った。
「安心しろ。私の居場所は、ユニオンだけだ」
「……グラハム、君は、馬鹿だ」
 最初から、レイの立場を感づいていながら、どうしてと。
 どうして、一番惹かれてはならない相手に惹かれたのかと。
「ああ、そうだな」
 微笑みながら、グラハムは頷いた。






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