深海に眠る恋
唐突に携帯電話の着信音が鳴り響く。
静寂な闇を、まるで切り裂くかのように――。
先に飛び起きたのは、寝室に置かれた簡易ベッドへと眠るレイだった。
数秒遅れて起きたグラハムは、うるさく鳴っている携帯電話を手に取った。
「はい、グラハ――」
何を言っているのかは聞き取れないが、わずかに漏れてくる声はカタギリのものだった。
どこか焦った様子のカタギリに、レイは不安を隠すことなくグラハムを見上げる。
先ほどまで眠っていたのが嘘のように、真剣な眼差しをしているグラハムに思わず見惚れていれば、気がつけば電話は終わっていた。
「――グラハム!」
ベッドから起き上がり、クローゼットへと向かうグラハムを、レイは慌てて呼び止める。
「こんな真夜中だというのに、招集をかけられた。帰りは多分、昼近くになると思う」
慣れた手つきで軍服へと着替えたグラハムは、くしゃりとレイの頭を撫でた。
それを心地良いと思いながらも、唐突すぎる招集――それも、普通の人ならば寝静まった夜中という時間帯に、レイは不安になる。
縋り付くこともできず、ただただ黙って見上げていれば、それまでの緊迫した雰囲気を纏っていたのが嘘のように、ふっとグラハムは笑みを零した。
「大丈夫。何も危険なことはないよ。ただ、少し厄介な出来事が舞い込んでね。それの処理をしなければならないんだ」
「厄介な出来事?」
「そう。本来ならば、私の任務ではないんだがね。何1つとして危険なことはないから、レイは安心して寝てなさい」
苦々しげに、厄介な出来事と告げたグラハムに、レイは安堵する。
グラハムが現在就いている任務については、簡単ながらにも説明は受けていた。
それが、命を賭けたものであることも。
真夜中に唐突ともいえる招集に、何か緊急事態でも発生したのではないかと危惧したが、それがグラハムの任務以外の出来事によるものだというのなら、まだ安心だ。
任務以外のことでなぜグラハムが招集されたのかは分からないが、聞いてはいけないと、なぜかレイはそう思った。
聞いてしまえば、後戻りできないと。
勘がそれを告げる。
「グラハム!」
もう一度頭を撫でてから背を向けたグラハムに、はっとレイは声をかけた。
不思議そうに振り返ったグラハムに、レイは精一杯の笑顔を浮かべた。
「いってらっしゃい」
「……行ってくるよ」
驚きに目を瞠ったグラハムだったが、納得した様子で微笑むと、今度こそ背を向けて、行ってしまった。
* * * * * * * * * *
見渡す限り、一面の『あお』――。
青、碧、蒼、それとも、あおなのか。
知っているはずなのに、知らない『あお』。
水中にいるかのように、何かがまとわりつくような感触と、自由に動かない躰。
けれど、息苦しさはなく、地上にいる時よりも楽に呼吸ができる。
このままこの場所に漂っていたいと、そう思っていたとき、それは聞こえてきた。
パリン、パリン、パリンと。
どこからともなく聞こえてくる音に、ふとレイは足下を見下ろした。
(えっ……?)
なぜ、今まで気づかなかったのだろうか。
足下に、硝子ケースに包まれながら眠る少年が1人。
目を凝らして見てみれば、その顔には見覚えがあった。
(……俺…?)
硝子ケースに包まれながら眠る少年は、レイと瓜二つ。
顔立ちも、体格も、何もかも、全て。
まるで鏡を見ているかのように、何もかも瓜二つな眠る少年。
パリン、パリン、パリンと。
音が先ほどよりも、はっきりと聞こえる。
より一層はっきりと聞こえたその時、硝子ケースに亀裂が走った。
(駄目だ……!)
これ以上壊れては駄目だと。
そう叫んだ時、先ほどまで聞こえていた音がピタリと止んだ。
(どうして……)
少年が眠る硝子ケースに亀裂が走ったその時、真っ先に感じたのは恐怖だった。
硝子ケースが壊れれば、全てが終わると。
そんなことなどあるはずなどないのに。
なぜか、そう感じた。
(グラハム……)
テロに巻き込まれ、意識を失っていた自分を助けてくれたグラハム。
記憶を失った自分のために、レイという名前をくれたのも、グラハムだ。
彼の元に帰りたいと、もう一度グラハムの名前を呼ぼうとして、レイははっと口を噤んだ。
(誰……)
いつの間にか、目の前に見知らぬ青年がいた。
いつの間にと、そう思いながらも。
懐かしさを感じる青年を、レイは呆然と見上げる。
(どうして……)
懐かしさ以上に、どうしてか愛おしさを感じる。
見覚えなど、ないのに。
どうして、グラハムよりも愛おしいと思ってしまうのか。
知らない感情に、怯えたレイは後ずさる。
少しでも青年から離れたくて、その場から逃げ去ろうとして、できなかった。
寂しそうに。
悲しそうに。
それでいて、どことなく嬉しそうに。
そっと伸びてきた手から逃れることなど忘れて、いつの間にか抱きしめられていた。
痛いほどに抱きしめられているというのに。
怒りも、戸惑いも、浮かばない。
むしろ嬉しいとさえ思ってしまった自分に、レイは見覚えのないはずの青年を見上げる。
(誰……?)
誰なのだと、そう問いかければ、傷ついた様子の青年に胸が痛む。
彼を悲しませているのは、自分なのだ。
その事実が、痛い。
優しく頬を撫でながら、スッと青年は足下を指差す。
青年が指差す先にいるのは、硝子ケースに包まれながら眠る少年。
浅い呼吸を繰り返しながら目蓋を閉ざしている少年は、いつ目覚めてもおかしくはないのに。
彼はまだ、目覚められないのだと。
どういうわけか、自分は知っている。
どうしてそんなことを自分が知っているのかと愕然としていれば、再び青年は指差す。
今度は、足下にいる少年ではなく、自分に。
(なに……?)
悲しそうに微笑むだけで、青年は何も告げようとはしない。
まるで、答えはすでにあるのだと、言わんばかりに。
答えなど、知らないのに。
(どうして……っ)
何も言ってくれないのだろう。
教えてほしいと縋り付けば、青年はどこか困ったように首を横へと振る。
そうして、再び痛いほど強く抱きしめられた。
彼の名前を呼べば、全ては解決するのだろう。
でも、自分は彼の名前を知らない。
呼ぶ名前がないことに戸惑っていれば、抱きしめていた腕が解けた。
(駄目だ、――――)
無意識に、叫んだ名前。
けれどそれは、聞こえなかった。
でも、自分は知っている。
無意識に叫んだ名前は、彼の名前だ。
知らないはずなのに、知っている自分に呆然としながらも、青年を見上げたレイは息を呑む。
嬉しそうに微笑む青年に、今叫んだ名前が彼のものだったのだと確信する。
でも、無意識の内に叫んだ名前を、自分は覚えていない。
それがとても悲しくて。
俯けば、額に柔らかい何かを押し当てられた。
(―――)
唇は動いているのに。
声は、聞こえない。
戸惑いがちに見上げていれば、ふっと苦笑した青年は、もう一度額に柔らかい何かを押し当てた。
それが唇だったのだと気づいた時、つい先ほどまですぐ目の前にいた青年は、手を伸ばしても届かない場所に立っていた。
(……嫌だ、嫌だ、――――)
徐々に透けていく青年に、レイは駆け出す。
消えないでと。
置いていかないでと。
そう叫ぶのに。
透けていくスピードが徐々に早くなっていく。
懸命に走って、あともう少しでたどり着くというその時――。
青年は、忽然と消えた……――。
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