深海に眠る





















 グラハムと待ち合わせしている喫茶店を目の前にして、急にレイは黙り込んだ。
 戸惑いながら周囲を見渡し始めたレイに、カタギリはすぐさま周りを見渡すが、特に変わったものは見受けられない。
 不審者らしき人物もおらず、カタギリはまだ周囲を見渡しているレイへと、怯えさせないように声をかけた。
「レイ、どうしたの?」
「……名前を、呼ばれたような気がして」
 戸惑いがちに告げるレイに、カタギリは再び周囲を見渡す。
 けれど、やはり不審者らしき者はおろか、こちらを見ている人物も見受けられない。
「名前を?」
「うん。でも、グラハムに付けてもらった名前じゃなかった」
 記憶を失い、己の名前も忘れてしまった少年に、グラハムが名付けた名前――『零』。
 そのグラハムが名付けた名前以外で呼ばれたというのなら、それは1つしか考えられない。
「何て呼ばれたんだい?」
「分からない」
「分からない?」
「分からないけど、名前を呼ばれた気がしたんだ」
 名前さえ分かれば、身元が分かるかもしれないと期待していただけに、落胆は大きい。
 同時に、安堵している自分に、カタギリは複雑な思いに駆られる。
 たった1週間しか一緒に暮らしていないのに、もうずっとレイと一緒に暮らしているような気がする。
 例え身元が判明しようと、判明しなくとも、ずっとレイと一緒に暮らしていくことはできないというのに。
 身元がこのまま分からなければ、レイはどこかの施設へと引き取られることになる。
 施設に引き取られるぐらいならば、記憶を失う前の世界に帰してあげたいと、そう思うのに。
 以前グラハムが告げた言葉が、カタギリを戸惑わせる。
「そう。もし、また同じようなことがあれば、教えてほしい」
「分かった。でも、どうして?」
「レイの本当の名前が分かれば、レイの身元が分かるかもしれないだろう?」
「俺の、本当の名前……」
 どこか戸惑いがちに呟くレイに、カタギリはくしゃりと頭を撫でる。
「きっとレイを探している誰かがいるはずだよ。その人を安心させるためにも、早く本当の名前が分かると良いね」
 誰か。
 行方知れずとなったレイを、本当に探している誰かがいるのか。
 出されている失踪届には、レイに該当するものはない。
 失踪届を出せない状況にあるのか。
 失踪届を出せない理由があるのか。
 それとも、失踪届を出すような誰かがレイにはいないのか。
 もし3つ目だとするならば悲しすぎると思いながらも、残る2つだった場合、胸を過ぎるのは、グラハムの言葉だ。
 グラハムの言葉が正しいというのなら――。
「……名前が分かったら、俺はどうなるの?」
 考え事に没頭していたカタギリは、慌てて現実へと舞い戻る。
「どうにもならないよ。レイが望めば、僕らはずっといられる。だから、そんなに心配しなくても大丈夫」
 本当のことなど、言えるはずがない。
 ただでさえレイは、小さな躰で、大の大人でも抱えきれないこともある不安を抱いているのだ。
 これ以上の不安を、与えるべきではない。
 例え、別れの時に嘘つきと罵られることになろうとも。
 本当のことを、いずれ一緒に暮らしていくことはできなくなるのだと、今はまだ、告げることはカタギリにはできなかった。
「本当に?」
「ああ」
 本当だと、カタギリは頷く。
 まだ不安が残るのか、揺れる眸で見上げてくるレイに、何か言葉を掛けるべきだろうかと悩んでいれば、喫茶店の店内から、片手を上げるグラハムが見えた。
「グラハム!」
 楽しげに手招きしているグラハムに、それまでの不安そうな表情を消して、笑顔を取り戻したレイは駆け出した。
 嬉しそうに抱きついたレイを、グラハムは笑顔で抱き留める。
 一見すれば、恋人同士にも見える2人。
 それほどまでに、一緒にいる2人は幸せに見える。
 このまま、幸せな時間が続くのだと、思わず錯覚してしまうほどに。
「随分と遅かったな。あまりにも遅くて、コーヒーを3杯も注文してしまったよ」
「この短時間で飲み過ぎたよ、グラハム」
 飲み過ぎは躰に悪いと睨み付ければ、グラハムは肩を竦める。
「ところで、買ったものはどうしたんだ?」
 本屋へと向かった時と同じように、レイとカタギリは手ぶらだ。
 レイ用にと買ったはずの問題集は、どこにも見られない。
「あの量を持ち帰るわけにはいかないからね。届けてくれるよう、手配しておいた」
 中等部と高等部、全てをカバーできるだけの量の問題集を購入したのだ。
 店員でさえたじろいだ量を、車で来ているわけでもないのに、持ち帰る勇気などカタギリにはない。
 明日までに届けてくれるよう、手配をすぐさま頼んだ。
「ああ、その手もあったか」
「グラハム、変なことを考えていないだろうね?」
 妙に感心しているグラハムに、カタギリは疑いの目を向ける。
 レイや自分なら、絶対に持ち歩けない量の服や日用品を購入ししてもなお、足りないと言ったグラハムのことだ。
 嫌な予感が、胸を掠める。
「なに。今度レイのものを買う時にでも、そういうのもありだと思っただけだ」
 案の定というべきか。
 予感が当たったことに、カタギリは脱力する。
「これは本当に、僕が付いていかないと駄目だな」
 グラハムとレイの2人で買い物に行かせようものなら、大変なことになりかねない。
 それこそレイが心労で倒れてしまわないように見張っておかなければ。
「さて、必要なものは購入したから、今日はもう帰ろうか」
 元気よく頷いたレイに微笑みながら、3人は帰路についた。









* * * * * * * * * *










「――レイは?」
 寝室から出てきたグラハムに、コーヒーを淹れる準備をしていたカタギリは手を止めて尋ねた。
「ぐっすりと眠ってるよ。あの子にとっては初めての外だ。気疲れしたんだろう」
「まだ怪我も完治していないからね。ちょっと無理をさせすぎたかな?」
 時計の針は、夜の9時を少し過ぎた頃を指し示している。
 普段のレイならば、まだ起きている時間帯だ。
 すでに夢の住人となってしまったレイに、寝室で眠っているとはいえ、2人は声を少し潜める。
「あまり過保護にし過ぎても、あの子の為にはならないさ。ところで、私がいない間に何があった?」
 聡いグラハムのことだ。
 わずかな異変にもすぐ気づくとは思っていたが、まさか本当に気づいていたとは。
 事情を全て知っているカタギリでさえ、レイから感じられた『異変』はごく僅かだった。
 それなのにと、ほんの僅かなレイの異変を見逃さないグラハムに、カタギリは危機感を抱く。
 レイはいずれ、自分たちの手から離れ行く存在だ。
 例えどんなにレイやグラハムが望もうと、それはすでに確定された未来。


 抗う術は、ない――。


「名前を、呼ばれたような気がしたそうだ」
「名前を?」
「そう。それも、君が名付けた『レイ』以外の名前を」
「っ……」
 鋭く息を呑み込むグラハムに、カタギリは目を細める。
「グラハム、以前君が言っていた考えが正しければ、すでに彼らがレイを取り戻そうと、日本に潜伏している可能性も否めない」
 レイが、CBの一員――ガンダムのパイロットである可能性があると言ったのは、グラハムだ。
 確たる証拠もなく、問いただそうにも、レイにはテロに巻き込まれた以前の記憶がない。
 けれど、カタギリはグラハムの勘を少しも疑ってはいなかった。
 過去においても、グラハムの勘は全て正しかった。
 今回だけ外れている可能性など、無きに等しい。
 それこそ、あの子の名前の通りに。
「……カタギリ、私はガンダムとは正々堂々と戦いたい」
「分かってるよ。だから僕は、君に協力しているんだろう」
 レイの処遇についても、保護に関することも全て。
 例えグラハムの望みとは言え、レイは今頃、どこかの施設に預けられていたが、他の誰かの保護下に入っていたはずだ。
 カタギリが協力しなければ。
 あの時は、グラハムが保護することが最善だと考えて、協力した。
 それが本当に正しかったのかと、いずれ訪れるであろうレイとの別れの時を考えると、揺らぎそうになる。
 あの時自分は、グラハムに協力すべきではなかったのではないかと。
「でも、どうするんだい?」
「なにをだ?」
「レイが、君の勘通りの人物だったら」
「それは……」
 迷いの色を見せたグラハムは、黙り込む。
 グラハムもまた、自分の勘が外れているとは思ってはいないのだろう。
 勘の正しさを、誰よりも知っているのはグラハム自身だ。
 初めて彼の勘の鋭さを目の当たりにした時、自信に溢れていたグラハム。
 今は、その面影は欠片も見られない。
「グラハム、君の勘が正しければ、彼らはただ黙っているはずがないよ」
 いずれ、遠くない未来に接触を図ろうとするはずだ。
 テロに巻き込まれた数人をユニオン側が保護していることは、すでにCB側も把握しているだろう。
 そのことについては特に隠し立てもしておらず、軍内部でも知っている人間は多い。
 だが、レイが記憶を失っていることは、まだ一握りの人間しか知らない。
 今はまだ、CB側もレイが記憶を失っていることまでは把握してはいないだろうが、すぐに気づくはずだ。
 レイが記憶を失っていることに気がついた時、彼らCBがどんな行動を起こすか。
 記憶を取り戻せれば、それで良い。
 もしも記憶を取り戻さなかった時、連れ戻して、記憶を取り戻すまで待つか。
 それとも、何かの弾みで情報が漏れるのを防ごうとするのか。
 情報漏洩など、彼らにとってはかなりの痛手のはずだ。
 レイをこのまま放置しておくことなど、まずあり得ない。
「……カタギリ、私は例え何があろうと、あの子の正体を上に告げるつもりはない」
「そう言うと思っていたよ」
 全くと、カタギリは溜息をつく。
 グラハムとは長い付き合いだ。
 考えていることなど、手に取るようにとまではいかないが、それなりに分かっている。
「あの子のことについては、暫く様子を見てから決めたい」
「それは、彼らが接触した上でってこと?」
「ああ」
「彼らはもしかしたら、すでにレイが記憶を失っていることに気づいているかもしれないよ。それでもかい?」
 名前を呼ばれたような気がしたと、そう言っていたレイ。
 もしもそれが気のせいではなく、本当に誰かがレイの本当の名前を呼んだとしたら、彼らは不審に思ったはずだ。
 名前に反応しないどころか、自分たちに気づかなかったレイに。
 その理由を突き止めようとすれば、彼らは知るだろう。
 レイが、テロに巻き込まれた以前の記憶を失っていると言うことに。
「それでもだ」
 CBと接触したことにより、レイが記憶を取り戻そうとも。
 記憶を取り戻したレイと、再び敵対することになろうとも。






next