嗅ぎ慣れた匂いがする。
懐かしい、けれど、嫌な記憶を刺激する、硝煙と錆びた鉄が混じり合った匂い。
全身を襲う痛みと、痺れた感覚に喘ぎながらも、刹那は目蓋を懸命に持ち上げる。
途端、広がる光景は、地獄絵図――。
ある者は地面に倒れ込み、ある者は必死に助けを求め、ある者は地面に倒れ込んでいる人を助けようと必死になっている。
見るも無惨な姿へと成り果て、鉄骨を剥き出しにしている建物。
そして、あちらこちらから上がっている炎と煙。
(何が、起こっている……っ)
状況を確かめようと立ち上がろうとするが、全身を襲う痛みと、痺れた感覚がそれを許さない。
起き上がることすらできず、指先の感覚すら感じられない。
ついには耳鳴りのように聞こえていた怒声と悲鳴が、徐々に小さくなっていく。
(駄目、だ……)
沈み行こうとする意識を必死に繋ぎ止めようとするも、眠りへと誘う力が強すぎる。
抗う術もなく、ついに最後の砦だった目蓋が完全に閉じた。
「………ン…っ」
ただ1人。
恋人の名を呟きながら、刹那は意識を手放した――……。
深海に眠る恋
ゆっくりと、意識が浮上していく。
重たい目蓋を何とか持ち上げれば、視界がモヤがかかったかのようにぼやけている。
瞬きを繰り返せば、徐々に合っていく焦点に、モヤが晴れていく。
クリアーになった視界で天井を見つめていれば、鼻にツンと刺す消毒液の匂いに気がついた。
見慣れない真っ白な天井に、部屋に充満している消毒液の匂い。
ここは、どこだと。
確認しようと、全身から感じる気怠さを無視して起き上がろうとすれば、全身に激痛が走る。
呻き声1つすら上げることすらできず、先ほどより深く、ベッドへと沈み込んだ。
「…………な、に…っ」
覚えのない躰の痛み。
見慣れない天井。
そして、まとわりつくような消毒液の匂い。
言うことを聞かない躰の代わりに、痛みを堪えながら首を動かして部屋全体を見渡して、部屋の扉の前に立つ男にようやく気がついた。
「だ、れ……?」
明るい金髪に、澄んだ翡翠色の眸。
スラリと引き締まった躰が身に纏うのは、ユニオンの軍服だった。
近づいてくる男を不思議そうに見上げていれば、戸惑いの色が混じった視線を向けられる。
「少年……?」
どうしたのだと親しげに問いかけられ、首を傾げる。
まるで自分が誰なのか知っているような男の問いかけに、もう一度顔を確認してみるが、やはり記憶にはない。
誰か他人と間違えているのではないかと、そう言おうとして、はっと口を噤んだ。
「少年?」
「……誰?」
そう、誰だ。
男が着ている制服がユニオンのものだと言うのは分かるのに。
どうして、
「俺は、誰だ?」
どうして、自分の名前が浮かばない――。
澄んだ翡翠の眸を大きく見開く男を、ただ見上げることしかできなかった。
「簡単に言ってしまえば、記憶喪失だね」
いくつかの質問に返ってきた答えに、カタギリはそう結論付けた。
「随分簡単に言ってくれるな」
忌々しげにカタギリを睨み付けながらも、グラハムは戸惑いを隠さない少年へと微笑みかけることを忘れない。
別室で待機していたカタギリを、あの後すぐにグラハムは呼び出すと、すぐさま少年を診るように頼んだ。
事情を完全に呑み込む暇も与えられず、少年へといくつかの質問を投げかけていたカタギリの顔色が徐々に変わっていく様子に、診断結果などすぐに想像できてしまった。
診断結果は、想像していた記憶喪失――。
「ちゃんと前置きしただろう。それにしても……っ」
苦々しげにグラハムに返しながら、カタギリは痛ましげに少年を見下ろす。
「さて、困ったな」
腕を組みながら、グラハムは考え込む。
カタギリのように記憶を失った少年に同情している暇は今のところない。
年相応な表情をしながら、好奇心を剥き出しにした地元の少年を装い、自分たちから逃げ出そうとした、アザディスタンで出会った目の前の少年。
研いだ牙は隠そうと思っても、そう簡単に隠せるものではない。
特に成熟しきった獣でなければ、相手が素人でない限り無理だ。
カタギリは騙し通せたかもしれないが、自分もまた騙し通せたら大きな間違いだと指摘してみせれば、途端研いだ牙を向けてきた。
年若い獣と同じで、まだまだ甘いなと思いながらも、想像以上に鋭かった牙と眸に思わず魅入ってしまった。
あれは、ぬるま湯に浸りきった人間ができるような眸ではない。
戦場を知り、そして、人を殺したことがある人間しかできない眸だ。
ぞくぞくと背筋を通り抜ける感覚に、沸き起こる喉元へと食らいついて、骨までしゃぶり尽きたいという衝動を抑え込むのが大変だった。
あの時は情報を与えるだけ与えて、手放した。
いつかまた会えるだろうと、そんな予感がしたのもあるが、まだ時期ではないと。
もう少し成熟するのを待とうと思っていたが、まさかこんなにも早く再会できるとは。
記憶を失ってしまったとはいえ、惹かれ合う運命にあるのではないかと疑ってしまう。
「なあ、グラハム」
「なんだ、カタギリ」
「これから彼のことを、私たちはなんて呼べば良いんだ?」
「…………」
「まさか少年って呼ぶわけにもいかないだろう」
「そうだな……」
責めるように睨み付けてくるカタギリに、顎に手を添えてグラハムは考える。
テロ現場から知り合いだからと、無理矢理引き取ってきたのは良いが、記憶を失っているとなると、問題が発生する。
知り合いとは言えばそうだが、それは顔見知り程度だ。
身元はもちろん、名前すら知らない。
どの程度の知り合いか問われなかったと言い逃れることもできなくはないが、そんな手はできれば使いたくはない。
そんな言い訳を使ったら最後、少年を手元で保護できなくなってしまう。
記憶を失ってしまった状況で放り出すことはしないだろうが、どこかの施設に預けるぐらいならば、手元に置きたい。
だが、身元だけではなく、名前すら知らない人間を軍が保護するのは、相当な理由がなければ、長期間は無理だ。
さて、どうしようかと、グラハムはじっと少年を見つめる。
所持品から名前や身元が分かるものは一切出てこなかった。
唯一手掛かりになりそうな携帯端末は爆発の影響か、壊れていて使い物にならない。
念のためにと調べさせたが、結果はやはり空振りだった。
「あ、あの……っ」
どうしたものかと悩んでいれば、掛けられた声に、グラハムは顔を上げる。
「どうした?」
「あの、どうして俺はここに?それに、全身が酷く痛いし、傷も……」
そう言えばと、グラハムはカタギリと顔を見合わせる。
記憶を失っているということに酷く動揺して、全くというほど説明らしい説明をしていないと、2人はようやく気づいた。
どちらが説明するかと目配せで確認しあう。
「君はテロに巻き込まれたんだよ」
言い聞かせるかのように、カタギリが告げる。
「テロ?」
「そう。調査した結果、君はテロ現場から離れた場所にいたらしいんだけど、爆風で吹き飛ばされたらしくて」
「おそらくその時に、どこかに頭でも打ったんだろう」
全身の傷は、爆風の衝撃で飛んできた物や硝子の破片でついたのだろう。
全身傷だらけにしながらも、特に深い傷は見受けられなかった。
ただ、全身打撲に、剥き出しだった肌は軽度の火傷を負っていた。
当分は要安静という診断が下ったが、絶対安静というわけではなく、無理矢理グラハムが引き取っても、誰も何も言えなかった。
「記憶は、戻るのか?」
「きちんと検査をしないと詳しいことは分からないけど、脳はとてもデリケートなものだから、明日急に思い出すこともあれば、中にはずっと……」
言いにくそうにカタギリは言葉を濁す。
それで分かったのだろう。
顔を真っ青にさせた少年に、カタギリが慌てて座っていた椅子から立ち上がる。
「ああ、でも、僕たちも君が記憶を取り戻す協力は惜しまないから!」
ねっと、カタギリはグラハムへと同意を求める。
「カタギリの言う通り協力は惜しまないが、その前に――」
青ざめた顔色で首を傾げる少年に、グラハムは笑みを深める。
アザディスタンで出会った時の少年に酷く興味を惹かれたのは事実だが、記憶を失い、不安そうにしている目の前の少年もまた、酷く興味深い。
面白いと、そう思いながら、グラハムは少年へと声をかける。
「名前をどうしようか?」
「な、まえ……?」
「そうだ。名前がないと色々と不便だろう。何か浮かぶものはないか?」
考え込むが、何も浮かばないのだろう。
頭を振る少年に、グラハムは提案する。
「では、レイという名はどうだろうか?」
「レイ?」
「そう。日本ではゼロという数字を、レイと呼ぶことがあると聞く。今の君は何も持っていない無の状態だ。だから、レイ」
「良いじゃないか。下手に変な名前も付けられないし、何より覚えやすい」
賛同するカタギリに、少年は瞬きする。
「レイ……」
確認するかのように、少年は繰り返し口の中で呟く。
その様子に、顔を見合わせた2人は笑みを浮かべながら頷き合った。
next