烙印の絆 U-U
誰もいない展望室で、刹那はひとり膝を抱えてうずくまっていた。
ひとりになりたいのに、どうしても部屋にはいたくなくて。
館内を彷徨い歩いて辿り着いたのが、展望実だった。
――ソラン。
耳にこびり付いて離れない声に、刹那は両手で耳を塞ぎ、目を閉じる。
一年前まで、あの声で名前を呼ばれることが嬉しかった。
当時まだマイスター候補でしかなかった自分とは違い、すでにガンダムマイスターだったロックオンと会えるのは良くても月に数回だけ。
休暇を使ってロックオンが施設へと訪れてくれなければ会うことすらできず、いつだって寂しかった。
ロックオンが休暇のたびに施設へと訪れてくれているのを知っていたから、寂しさを伝えることなんてできなくて。
マイスターに選ばれれば、それこそ毎日一緒にいられるのだと。
それだけを心の支えにして、刹那は毎日の訓練に励んでいた。
そうして、運命のあの日――。
噛み合うはずのなかった歯車が、動き出してしまった。
スタッフのひとりに呼ばれ、ヴェーダによってマイスターに選ばれたことを刹那が知ったほぼ同時刻。
久しぶりの休暇を利用して、ロックオンは施設へと訪れていた。
訓練ルームにも部屋にも姿が見えない刹那を――当時はまだソラン・イブラヒムと名乗っていた子どもを捜すため、ロックオンは施設内を歩き回っていた。
ロックオンの休暇がその日でなければ。
ヴェーダがその日、ソランをマイスターに選ばなければ。
扉を開けっ放しにしたまま、施設のスタッフがソランに関することを話し合っていなければ。
何かひとつさえ欠けていれば、家族を奪ったテロ組織にソランが所属していたことをロックオンが知ってしまうことは避けられたかもしれない。
ソランが家族を奪ったテロ組織・KPSAに所属していたことを知ってしまったロックオンは、誰にも気づかれることなく、その場を後にした。
――KPSAに所属していたのは、本当なのか?
マイスターに選ばれたと。
久しぶりに会うロックオンへと笑顔で報告しようとした時、静かに問いかけられた。
なぜロックオンがそのことを知っているのかと疑問に思いながら。
ロックオンから家族を奪ったテロ組織の名前が、KPSAであることを知らなかったソランは、頷いていた。
頷くべきではなかったのに。
戸惑いながらも頷いた次の瞬間、強い力で壁へと叩き付けられた。
痛みと衝撃で呼吸すらままならず、何が起こったのかすぐには分からなかった。
ロックオンによって壁へと叩き付けられたのだと気がついたときには、すでに両手で首を締め付けられたあとだった。
どうしてと。
なぜロックオンが、自分を殺そうとするのかと。
あまりにも突然のことで、わけが分からなくて。
懸命に抵抗するソランへと、忌々しげにロックオンは教えてくれた。
家族を奪ったテロ組織の名前を。
かつて所属していたKPSAによってロックオンが家族を奪われたことを知ってしまったソランは、抵抗することを忘れた。
もしも異常に気がついたスタッフが、あと少しでも駆けつけるのが遅れたら、ソランの命はなかっただろう。
異常を察知して駆けつけたスタッフによって押さえ込まれたロックオンは、翌日、ヴェーダの指示によってソラン・イブラヒムに関する全ての記憶を消去された。
ロックオンはもちろん、すでにマイスターに選ばれたソランもまた、失うわけにはいかないと。
ロックオンと同じように、ソランもまた記憶消去が行われるはずだった。
著しい体力の消耗の激しさと、メンタル面を考えて記憶を消すことがソランのためだと。
けれど、それをソランは全力で拒否した。
全ては、罪を忘れていたことで起こった悲劇。
ロックオンに関する記憶が消去されれば、また同じことが繰り返されるかもしれないと。
同じことを繰り返さないことと、ロックオンの記憶が戻らないよう監視することを条件に、ソランの記憶に関しては消去されることは赦された。
あれから、一年。
「……頼むからっ」
失われた記憶は、何かの弾みで戻ってしまうことが希にあるが、それは何らかの強い刺激が外部から与えられた場合のみだと、刹那は聞かされていた。
けれど、ブリーフィンブルームを立ち去ろうとした間際のあれは、外部から強い刺激を受けて引き起こったものではない。
原因は分からないが、ロックオンの記憶の一部が綻び始めているのは確かで。
記憶が戻ってしまう前に、もう一度ロックオンから記憶消し去ることは簡単だ。
けれど、根本的な原因が分からない限り、それは意味をなさない。
何が原因で記憶が戻りかけているのか、それを早く突き止めなければ。
そうしなければ、また――。
「頼むから、今はまだ、思い出さないでくれ……っ」
まだ、忘れたままでいてくれと。
刹那はここにはいないロックオンへと懇願することしかできなかった。
「今日はもう、何もなかったんじゃないんですか?」
もうそろそろ日付が変わろうとする時間帯。
急に呼び出しを受けたアレルヤは、スメラギの部屋にいた。
深夜遅く、それも日付が変わろうかとする時間帯の急な呼び出しに、何か緊急事態でも起こったかと思えば、スメラギの態度からは全くというほどそれは窺えない。
「そうだったんだけどね。明日の模擬戦を行うに当たって、少し気になって」
ついに来たかと、アレルヤは覚悟を決める。
少し前からいつか呼び出しを受けることになるだろうとは思っていたが、もう少し後のことだと思っていた。
まさかこんなにも早く呼び出しを受けることになるとは。
「何をでしょうか?」
「気づいているんでしょう? 私が聞きたいことは刹那のことよ」
予想と違わない問いかけは、おそらくここ数日のことを指しているのだろう。
誰も傍に寄せ付けなかった刹那が、他人が傍にいることを赦した。
相手がロックオンなら、ようやく努力が実ったのだと思うところなのだろうが、実際に刹那が傍にいることを赦したのは別の人間。
「刹那はとても警戒心が強いわ。その刹那が、あなたが傍にいることを赦した。何かあったのかと勘ぐっても赦されると思わない?」
「それで、スメラギさんの現段階での見解は?」
「刹那が、ロックオンに対してだけ特に警戒心を剥き出しにする理由をあなたは知ってしまった。だから刹那の傍じゃなくて、ロックオンの傍に常に張り付いてる。いざというときに、刹那を助けるために。違ったかしら?」
全てお見通しかと、流石ヴェーダが選んだ戦術予報士だとアレルヤは嘆息する。
「概ね合ってます」
刹那の傍に常に張り付いているわけでもないのに、ロックオンから逃亡する手助けを、いつも絶妙なタイミングで行える理由。
それは刹那の傍ではなく、ロックオンの傍に張り付いているからだ。
詳細までは知らないが、それでも秘密を知ってしまった相手とはいえ、警戒心の強い刹那がそれだけを理由に傍にいることを簡単には赦さない。
仮に傍にいることを赦したとしても、精神的な疲労は拭えないだろう。
ならばと、アレルヤは刹那ではなく、ロックオンの傍にいることにした。
それならば、刹那に負担を強いることなく、ロックオンから逃げ出す手助けができると踏んで。
常にというわけではないが、普段からロックオンと共に行動することも多かったことから、当事者ふたりに気づかれた様子はなく、目論見は成功したと言える。
「概ね?」
「ええ。詳しいことは、僕も知らないんです」
「それでも構わないから、知っていることを教えてちょうだいと言ったら?」
「刹那と約束したんです。誰にも話さないと。ですから、例えスメラギさんとはいえ、話すわけにはいきません」
これが他の誰かで、現状を打開するためならば、もしかしたら話していたかもしれない。
けれど、約束した相手は刹那だ。
せっかく得られた信頼を、現状を打開するためとはいえ失いたくはない。
何よりスメラギに話したことで、刹那が何らかの処分を受けてしまう事態だけは避けたかった。
「……まあ、良いわ。今は気になる程度だから無理には聞き出すつもりはないけど、何か問題が起こったら覚悟してちょうだい、アレルヤ」
「怖いですね」
わずかに本気の色を窺わせるスメラギに、アレルヤは苦笑する。
「夜遅くに呼び出しちゃって悪かったわ」
「本当ですよ。明日は朝早いのに」
明日の朝早くに行われる模擬戦のペア相手は、ガンダムマイスターの中で誰よりも規律に厳しいティエリアだ。
どんな理由があろうとも、模擬戦とはいえ、戦闘中に手を抜こうものなら、何を言われるか。
「そういえば、あなたのペア相手ってティエリアだったわね。本当にごめんなさい、アレルヤ!」
「もう良いですよ。計画が本始動すれば、寝不足なんて言っていられない状況になるでしょうし」
それこそ計画が本始動してしまえば、滅多に休暇を取ることすらままならないだろう。
良い予行練習だと思えば、色々と諦めもつく。
「では、お休みなさい、スメラギさん」
「ええ、お休み、アレルヤ」
スメラギへと背を向けて、扉を抜けようとしたアレルヤは、ふと立ち止まる。
誰にも話さないと約束したが、これぐらいならば刹那も赦してくれるだろう。
「アレルヤ……?」
どうしたのと声をかけたスメラギに、振り返ったアレルヤは、どこか困った様子で微笑む。
「刹那は、ロックオンのことを嫌っていませんよ」
それだけを言い残して、今度こそ本当にアレルヤは部屋から立ち去った。
残されたスメラギは、困ったものねと笑う。
「知ってるわよ、そんなこと」
だって、ロックオンのことを拒絶するたびに悲しそうな表情をしてるものと。
スメラギの呟きは、宙に消えた。
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