烙印の絆 T-U
迂闊だったと、自らの行動を刹那は反省する。
最初は無視するつもりだった。
けれど気がつけば淹れていたコーヒーは、宇宙空間においては貴重な水分。
捨てるわけにもいかず、仕方なくコーヒーを要望していたロックオンへと刹那は渡すことにした。
無意識に淹れていたこともあり、どんな味になっているか分からなかったが、ただコーヒーと注文したロックオンが悪いと。
そう思って渡したこともあり、なぜコーヒーにミルクを淹れたのかと訊ねられたとき、刹那は動揺せずにはいられなかった。
朧気ながら、コーヒーにミルクを淹れた覚えはある。
量までは覚えてはいないが、無意識にロックオンが好んでいた量を淹れていたのは、本人の反応からまず間違いない。
考えられない失態に思わず動揺した刹那は、すぐに平静を取り戻すと、俯いていた顔を上げた。
何とかロックオンを誤魔化すことに成功したが、何か言いたげなアレルヤの視線に、今日は失態続きだと刹那は苦々しく思う。
動揺したことを悟られた相手がロックオンでなかっただけマシだと喜ぶべきかと頭の片隅で考えながら、刹那はそっと目蓋を伏せた。
ヴェーダによって行われたロックオンの記憶改竄。
それは簡単には解けないとはいえ、何が切っ掛けで戻るか分からないあやふやな状態に安堵しているつもりはない。
食事を終えた刹那は、ロックオンに気づかれないようアレルヤへと目配せしてから食堂を後にした。
「率直に訊ねるよ」
先に展望室へと訪れていた刹那が振り向き際に前置きしたアレルヤは、返事を待つことなく訊ねた。
「刹那は、ここに来る前からロックオンのことを知っていたの?」
「随分と直球だな」
「遠回しに聞くのはあまり得意じゃないんだ」
過去の関係について秘匿義務はないとはいえ、誰彼構わずに吹聴するようなことではない。
ロックオンとの関係性について否定することもできたが、それではアレルヤは納得してくれないだろう。
下手に探られるよりもと、迷った末に刹那は口を開いた。
「ロックオンのことは、施設にいた頃に知った」
「施設って、候補の頃にいた?」
「ああ」
ガンダムマイスターになるためには、マイスター候補として必要な訓練を受けなければならない。
機体の操縦はもちろん、万が一を想定して機体の修理、白兵戦やスパイ活動、多岐に渡る項目を習得して始めて、ガンダムマイスターになる資格を得られる。
資格を得られたからと言って、全ての人間がガンダムマイスターになれるわけではない。
資格を得られて始めて、ヴェーダによってマイスターに相応しいかどうか見極められ、選ばれた人間だけがガンダムマイスターになることが赦される。
刹那はもちろん、ロックオンやアレルヤもまた例外なく、数年候補として施設で訓練を受けていた。
「待って、刹那。候補とマイスターの接触は、原則禁止だったはず。なのにどうして、君がロックオンのことを?」
「……俺たちが出会ったのは、偶然だった」
一方的にロックオンを知っているわけではないのだと。
暗に示せば、アレルヤは目を瞠る。
「ある日施設で偶然知り合い、その後半年間、ロックオンは施設へと通い続けた。面白みも、愛想のない子どもだった俺に、どういう訳かロックオンはいつだって優しかった。でも、一年前――」
出会いは、たった数分の邂逅だった。
特に気に入られた覚えなどないのに、どういう訳かその日を境に、ロックオンは休暇のたびに施設へと訪れるようになった。
当初は親しくしていたスタッフたちに会いに来ているのだと、そう思っていた。
だが、真っ先に自分の元に訪れるロックオンに、それが違うのだと気づいたのは、案外早かった。
最初は戸惑うことしかできなかった。
けれどいつしか戸惑いが嬉しさに代わり、ロックオンが訊ねに来る日を楽しみに待つようになっていった。
一年前のあの日、真実を知ってしまうまでは――。
「ロックオンは、俺に関する全ての記憶をヴェーダによって消去、改竄された」
「どうして……っ。どうしてヴェーダが、君に関する記憶をロックオンから消したりなんてっ。そんな、非人道的な!」
「それが、ロックオンのためだったからだ。記憶を消さなければ、ロックオンはガンダムマイスターであり続けることはできなかった。だから、ヴェーダは」
ロックオン・ストラトスから、ひとりの少年に関する記憶を全て消し去った。
計画遂行に支障をきたす恐れありという理由で。
本来なら、刹那もまたロックオンに関する記憶を消去されるはずだった。
けれど、記憶が消去されることはなく、変わりにある役目が与えられた。
ロックオン・ストラトスの失われた記憶の監視。
もしも記憶が戻るような素振りがあれば、すぐにでももう一度記憶消去が行えるようにと。
全ては、マイスターの欠員を防ぐために。
断る理由も、断れる理由も、刹那にはなかった。
「ロックオンから君に関する記憶を消さなければいけないほどのことって、一体……っ」
「これ以上は秘匿義務に当たる」
一年前に起こった内容を話すには、必然的に自分たちの過去を話さなければならない。
それは例え仲間であろうとも、赦されていない。
秘匿義務がなくとも、いまだ癒えない傷を抱えたままでは、アレルヤへと話すことはできなかっただろう。
「……分かった。これ以上は何も聞かないよ。ただ、ひとつだけ良いかな?」
「内容による」
「刹那、君はロックオンのことをどう思ってるの?」
嫌っているようには見えないけれどと。
訊ねるアレルヤに、ふと笑みが零れる。
嫌いになれるはずなどない。
今ではもう憎まれることしかできないけれど、互いに何も知らなかった頃は、本当に幸せで。
一生分の幸せを使い果たしてしまったのではないかと。
そう思ってしまうぐらいに、幸福だった。
だからこそ、ロックオンの豹変は本当に辛くて、悲しくて、苦しかった。
一時期は食べることを躰が拒否してしまうほどに、生きる気力さえも失うほどに。
今もこうして生きていることが、不思議に思えるほどだ。
例え、記憶を取り戻したロックオンにもう一度憎まれることになったとしても。
幸せだった頃の記憶は、本物だったから。
「……嫌いになれたら、どんなに良かったか」
紛れもなくそれは、心からの叫びだった。
何度ロックオンのことを嫌いになれたらと願ったことか。
息ができないほどの苦しさに。
胸が張り裂けそうなほどの痛みに。
もう二度と、笑いかけてもらえない悲しさに。
愛し続けることが辛かった。
けれど、嫌いになることも、ましてや憎むこともできなくて。
今もなお、愛しいという想いは変わることなく、胸に巣くっている。
どうしてと、何度も何度も自問自答してしまうほどに。
「刹那は、ロックオンのことが好きなんだね」
それに、刹那は応えなかった。
否、応える言葉を持っていなかった。
あの日、ロックオンに対して好きだと、愛していると言える資格は失われてしまったから。
「……今日のことは」
「誰にも言わないよ。というか、本当は誰にも話してはいけないことだったんだろう?」
本来なら、こうして事情を話すこともまたしてはいけないことだったのだとすぐに察してくれたアレルヤに、素直に刹那は頷いた。
特に罰則は設けられてはいないが、誰にも話すつもりはなかったのに。
なのに、気がつけばアレルヤに少しだけとはいえ話してしまったことに刹那は戸惑う。
「僕で良ければ、話ぐらいは聞くよ。刹那が僕のことを嫌いじゃなければの話だけど」
「秘匿義務がある」
「うん。でも、僕は知ってしまったから。だから、話せる範囲だけでも、辛くなったら話に来てほしい。きっと、少しは楽になると思うから。もちろん、誰にも言わないよ」
「……気が向いたら」
「うん」
嬉しそうに笑うアレルヤを、刹那は不思議な面持ちで見上げる。
穏やかに話しかけてくるアレルヤは、嫌いではない。
ただ昔から人との接触は苦手で、ましてやつい最近知り合ったばかりの相手と長時間会話を交わすのは苦痛を覚える。
見知らぬ相手――任務で必要だというのなら、演技することを覚えたとはいえ、これから先長いこと共に過ごすことになる相手となると、別だ。
その点アレルヤは、必要なこと以外で話しかけてくることはないため、気が楽だった。
同じように必要なこと以外で話しかけないとはいえ、敵意剥き出しで話しかけてくるティエリアは苦手だ。
敵意を剥き出しにするほどまでに嫌いなら無視すれば良いものを、少しでも接触するようなことがあれば、途端に敵意を向けてくる。
いちいちそれに反応するのも面倒くさくて、無視を決め込んではいるが、いまだにティエリアに飽きる様子は見られない。
スメラギに至っては戦術予報士ということでできる限り言うことは聞くようにはしているが、あの喧しさは苦手だ。
他のクルーはと考えて、どうやらロックオンを除いて苦手ではない相手はアレルヤぐらいだというに、刹那は唐突に気がついた。
「……刹那?」
考えに耽っていた刹那は、どうしたのと訊ねるアレルヤをジッと見つめる。
「…………じゃない」
「刹那……?」
「アレルヤのことは、嫌いじゃない」
好きかと訊ねられれば、それはまだ分からないけれど、アレルヤのことは嫌いでも、苦手でもないことは確かだ。
それだけでも伝えておこうと思えば、どことなく照れた様子でアレルヤははにかんだ。
「……ありがとう」
いやっと呟きながら、礼を言われる理由が分からなくて。
どうしてと首を傾げれば、どことなく楽しげにアレルヤは笑った。
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