約束を、もう一度    *Web用に一部改行してます。







 パタパタと小さな足音が廊下を駆ける。慌てたその足音はぴしゃりと襖が開く音と同時にとまった。
「光忠っ!」
 まだ幼さを残す声が、誰かを探すように名前を呼ぶ。
「光忠、光忠……っ」
 いつもなら名前を呼べば、すぐに慌てた様子で飛び出してくれる人影は、今日に限っては見られない。何度呼びかけてもしんっと静まり返ったまま、誰も呼び声に応じてくれることもなかった。
「…………光忠…?」
 どこに行ってしまったのか。
 迷子になった子どものように不安に揺れながら、ただただ探し求める人影を探す。
「光忠っ!」
 探し続けて、ようやく見つけた人影を追いかけてみれば、それは探し続けた相手ではなかった。
「……あっ」
「伽羅坊か。どうした?」
 そんなに慌ててと、同じ付喪神である鶴丸国永に尋ねられた大倶利伽羅は黙り込んだ。
 伊達家所有の刀剣であり、同じ付喪神とはいえ、付喪神となってまだ日の浅い大倶利伽羅とは違い、鶴丸は長い月日を生きていた。付喪神として格上である鶴丸に、その存在こそ互いに知っていたが、親しくはなかった。常に燭台切の後ろに隠れて、ひっそりと見上げていた相手を真っ正面から見上げる形になってしまった大倶利伽羅は、今すぐにでも逃げ出したかった。
「黙っていたら分からんぞ」
 仕方がないなあと苦笑しながら腰を屈めた鶴丸は、柔らかな大倶利伽羅の頬を突く。
「ほら、その口はなんのためについているんだ?」
 話せるだろうと促された大倶利伽羅は、渋々といった様子で口を開いた。
「……光忠を知らないか?」
 どこにもその姿がない光忠の行方を尋ねれば、鶴丸はゆっくりと目を見開いた。
「……ああ、そうか。お前は知らないのか」
 体を伸ばした鶴丸は、困ったなと頭を掻いた。
 あの馬鹿と呟く鶴丸に、燭台切の行方を知っているのかと大倶利伽羅は縋り付いた。
「光忠はどこにいるっ!?」
 教えろと鶴丸の腰丈ぐらいまでしかない大倶利伽羅は、詰め寄った。
「……あいつは、光坊はもういない」
「いない……? いつ頃戻ってくるんだ?」
 伊達家当主である伊達政宗公のお気に入りである燭台切は度々持ち出されていた。今回もそれかと、いつ頃戻ってくるのだと尋ねる大倶利伽羅に、鶴丸はその頭をくしゃりと撫でた。
「光坊は水戸徳川家に献上された。だから、もう二度とここには戻ってこないんだ、伽羅坊」
 ゆるゆると目を見開く大倶利伽羅を、鶴丸は痛ましく見つめる。
 言葉を失い、目に薄い水の膜を張りながらも、懸命に泣くのを堪える大倶利伽羅へと、鶴丸はそっと両の手を伸ばした。付喪神としてはまだ日が浅く、幼い姿をした大倶利伽羅を鶴丸は難なく抱き上げた。
「うわっ!」
 片腕でその体を支え、もう片手で頭を胸へと押しつけるように鶴丸は小さな体を抱きしめた。
「泣きたいんだろう? 子どもが我慢するもんじゃない。泣きたいなら、ずっとこうしてやるから、好きなだけ泣け、伽羅坊」
 ぽんぽんっと頭を撫でられた大倶利伽羅は、堪えていた反動か滝のようにボロボロと涙がこぼれ落ちてきた。泣く姿を見られたくなくて、鶴丸の胸へと顔を押しつけながら静かに泣いた。
 幼いながら静かに泣く大倶利伽羅が不憫で、鶴丸は大倶利伽羅が泣き止むまで大人しくその体を抱き上げていた。
 どれぐらいそうしていたか。かなりの長い間大倶利伽羅を抱き上げていた鶴丸は、もぞりと動いた頭にその顔を覗き込んだ。
「……見るな」
 散々泣いて、目元を赤くした大倶利伽羅は、泣いた後の顔を鶴丸に見られたくなくて顔を背けた。
「満足したか、伽羅坊?」
「…………助かった。感謝する」
 小さな声だったが、きちんと礼を言う大倶利伽羅に鶴丸は破顔する。
 燭台切がいなければ近寄りさえもせず、鶴丸から近寄ろうとすれば逃げ出してしまう大倶利伽羅に、こんな間近で会話をしたのは初めてのことだった。思ったよりも礼儀正しい大倶利伽羅に、色々と甘いところのある燭台切はきちんと教育を施していたのかと鶴丸は感心する。
「なあ、伽羅坊。今日は俺と一緒に寝るか」
 夜は燭台切と寝ていた大倶利伽羅は、燭台切がいなくなってしまった今、ひとりで寝るしかない。まだ幼く、燭台切がいなくなったその日に独り寝ができるとは思えなかった鶴丸は気づけばそう声を掛けていた。
「……ひとりで寝られる」
 燭台切がいなくなったことで、夜はひとりで寝なければいけなくなったことになったことに気づいた大倶利伽羅はさっと顔色を変えた。ぎゅうっと鶴丸の着物を握りしめながらも懸命に強がる大倶利伽羅に、燭台切があれこれと世話を焼いていた理由を察した。
 確かにこれでは世話を焼きたくなる。多少面倒くさがり屋のところがある自分でさえこれなのだ。面倒見が良い燭台切ならば、あれこれと世話を焼かずにはいられなかったことだろう。それだけに、どうして大倶利伽羅には別れの挨拶をしていかなかったのか。
「本当に?」
「あんたがいなくても、平気だっ」
「あんたじゃない」
 ぱちりと、大倶利伽羅は目を瞬かせた。
「鶴丸、いや、国永だ」
 今さらながらに名乗った鶴丸に、大倶利伽羅はただただ戸惑う。目の前にいるのが鶴丸国永であることは大倶利伽羅も知っている。出会ったときに自己紹介は済ませていた。
「ほら、国永って呼んでみろ」
「……国永?」
「そうだ。いいか、伽羅坊。これからはあんたじゃなくて、俺のことは国永って呼ぶんだぞ」
 分かったかと尋ねる鶴丸に、こくりと大倶利伽羅が頷けば良い子だと笑顔で褒められた。
「伽羅坊、燭台切がいなくなって寂しいから、今日は俺と一緒に寝てくれ」
 今日の独り寝は寂しいと、鶴丸はこぼす。
「あんたでも寂しいことがあるのか?」
「違うだろう、伽羅坊」
「……国永も、光忠がいなくなって寂しいのか?」
 改めて言い直した大倶利伽羅に、鶴丸は寂しげに笑った。
「当たり前だろう。いくつになっても寂しい気持ちは消えないもんさ。昨日まで一緒にいた奴がいなければ、俺だって寂しい」
 長い月日を生きてきた鶴丸でさえ、燭台切がいなくなって寂しいのだと。大倶利伽羅は何気なく、落ち込んでいる鶴丸の頭を小さな胸へと抱き寄せた。
「伽羅坊……?」
「仕方がないから、一緒に寝てやる」
「そうか。ありがとうな、伽羅坊」
 お前はやさしいなと、鶴丸は小さな胸に顔をすり寄せながら目を閉じた。






「――鶴さん」
 縁側に座り込みながらのんびりと中庭を眺めていた鶴丸は振り向いた。
「貞坊か。どうした?」
 声を潜めながら応えた鶴丸に、貞坊と呼ばれた太鼓鐘貞宗は腰に手を当てて仁王立ちになる。
「どうしたじゃないよ。一体いつの間に、伽羅と仲良くなったんだ?」
 あぐらをかいて縁側に座っている鶴丸の片足には、大倶利伽羅が頭を乗せてぐっすりと眠りこけていた。燭台切がいた頃は度々見られた光景とはいえ、まさかその光景を鶴丸で見ることになろうとは、流石の貞宗も想像にすらしていなかった。
「いつの間にって、そうだな。光坊がいなくなった日から、成り行きで……?」
 あの日から側に近寄っても逃げ出さなくなった大倶利伽羅に、自然と一緒にいることが多くなった。燭台切がいなくなった寂しさを埋めるかのように。
「そんなに前から。鶴さんがここまで面倒見良かったとは思わなかったぜ」
「何気に失礼だな、貞坊」
「自覚ぐらいあるだろう、鶴さん。それにしても、声を潜めているとは言え、ぐっすりと寝てるね、伽羅」
「確かにそうだな。こんな近くでしゃべってるのに、起きる気配もないな」
 つんつんっと鶴丸がぷっくらとしている大倶利伽羅の頬を突けば、うるさいというように片手で手を叩かれるが、起きる気配は全く見られない。ぐっすりと眠っている大倶利伽羅に鶴丸は自然と笑みをこぼした。
「みっちゃんがいなくなってから伽羅のことは俺なりに心配していたけど、心配なかったみたいだね」
「なんだ。貞坊も伽羅坊が心配だったのか?」
「そりゃあね。みっちゃんに一番懐いてたし、何より俺らの中で一番年下だもん。そりゃ心配するさ」
 見た目こそ貞宗と大倶利伽羅は同じ年頃に見えるが、貞宗のが年上だ。短刀であるがゆえにこれ以上姿が成長しない貞宗に対し、大倶利伽羅はこれからじっくりと時間をかけて大人へとその姿を変えていく。
「ただまあ、みっちゃん以外には自分から近寄ろうともしなかったから、遠くから様子見をしていただけだけどね」
 肩をすくめた貞宗は、穏やかに眠る大倶利伽羅の寝顔を見つめる。
「それにしても本当、随分と信用されてるね」
 前に縁側でひとり昼寝をしていた大倶利伽羅の寝顔を見ようと貞宗が近寄ったときは、慌てて飛び起きていた。あの時と同じように近づいたというのに、飛び起きる様子もなければぐっすりと眠っている大倶利伽羅に、どれだけ鶴丸が信用されているのかが分かる。
「夜は一緒に寝てるからな」
 最初の頃は風で揺れる木の葉の音でさえ飛び起きていた大倶利伽羅だったが、次第に鶴丸の気配に慣れたのか、気づけば朝までぐっすりと眠るようになったのは、つい最近のことだ。近頃では昼寝も鶴丸の側で取るようになった。
 こうやって穏やかな寝顔を見せてくれるようになった大倶利伽羅を穏やかな気持ちで鶴丸は眺める。
「そりゃあ、また……」
 びっくりしたぜと貞宗は目を丸くする。
「……なあ、鶴さん」
「なんだ?」
 声音を変えた貞宗に、鶴丸は顔を上げた。
「みっちゃんはさ、確かに伽羅に甘かったけど、ちゃんと将来のことも考えてたんだぜ」
「そうだろうな」
 確かに大倶利伽羅に対して甘かった燭台切だったが、自分でできることに関しては一切手を出さないようにしていた。なにくれと世話を焼いていたが、それだけはきっちりと線引きをしていた。
「将来、自分がいなくなったときのためにってっさ。多分、こんなに早く側から離れることになるとは思ってなかったんだろうけど」
 付喪神である自分たちは、依り代である刀の持ち主が変われば、それまでいた場所に留まってはいられない。燭台切のようにある日突然持ち主が変わり、別れを告げなければいけない日が来るかもしれない。いつか遠くない未来に、貞宗も鶴丸も、そして大倶利伽羅にもその可能性があった。
 これまで何度となく持ち主を変えてきた鶴丸はそのことを痛いほどよく理解していた。
「可愛いからって甘やかしたくなる気持ちも分かるけど、伽羅のことが本当に可愛いなら、ちゃんと独り立ちしてやってくれよな」
 それだけが心配だと。不安がる貞宗に、安心しろと鶴丸は笑う。
「俺だってそれぐらい、分かってるさ」
 ずっと側にいてやることはできないからこそ、突き放すのもやさしさだと。暗に告げる貞宗に、ちゃんと分かっていると鶴丸は返す。
「なら、いいけど。伽羅を泣かせるなよ」
 その時が来たら、傷つくのも泣くのも大倶利伽羅だ。誰よりも慕っていた燭台切が突然いなくなった経験をした後だけに、さらに傷つける真似は絶対にするなよと念押しした貞宗は気が済んだのか、その場から静かに立ち去った。
「こんなにもお前は愛されてるんだって、お前は分かってるのかね」
 きっと気づいていないだろう。
 思っていた以上に貞宗にも可愛がられていた大倶利伽羅に鶴丸はその頭をやさしく撫でる。
「俺が光坊と同じようにある日突然いなくなったら、お前は泣いてくれるか?」
 泣いてくれたら嬉しいと思いながらも、それが誰かの胸の中でなければ良いと願ってしまったことに、鶴丸は苦く笑った。










 何度となく月日を重ね、大倶利伽羅が少しだけ成長したある日、貞宗もまた伊達家からその姿を消した。常に明るかった存在がいなくなってしまったことで、まるで伊達家から火が消えてしまったようだった。
 面白いものを見つけたんだと。一緒に見に行こうと、半ば無理矢理引きずられたことは一度や二度ではない。鶴丸と一緒に下さらない悪戯を仕掛けられたときは本気で怒ったこともあったけれど、嫌いではなかった。
 否、自分とは正反対の性格をしていた貞宗のことが大倶利伽羅は大好きだった。
 またひとり、大好きだった存在が伊達家から消えた。
 持ち主が変われば一緒にいられなくなることは、燭台切が消えたときから分かっていた。いつか貞宗や鶴丸、もしかしたら自分の持ち主が変わる日が来るかもしれないという覚悟もあった。けれど――。
「胸を貸してやろうか?」
 縁側で膝を抱えて座り込んでいれば、隣に腰を下ろした鶴丸がそう声を掛けてきた。
「平気だ」
 幼かったあの頃とは違い、成長した今はその胸は必要ないと。ゆるゆると首を横に振った大倶利伽羅に、鶴丸はそうかと返した。
「お前も大きくなったな」
 くしゃりと頭を撫でられる。
 燭台切が伊達家から姿を消したときはまだ、鶴丸の腰丈ぐらいの身長ぐらいしかなかった大倶利伽羅はいまや、腰の高さまで伸びた。いまだ見上げなければいけないぐらい身長差があるとはいえ、その距離は少しずつ縮まっていた。
「いつまでも子ども扱いするな」
 あの頃とは違うと否定すれば、しょうのない子だと苦笑される。
「お前はまだ子どもだよ」
「すぐに追いついてやる。その時は国永のことを見下ろしてやるからなっ」
「そりゃあ楽しみだ」
 楽しみに待っていると、鶴丸は楽しげに両の手で大倶利伽羅の頭を撫でる。
「でもまあ、その姿でいられるのも長い年月の間で一瞬の間だ。急いで大人になる必要はないぞ」
 それにと。鶴丸は付け加える。
「今の大きさが丁度、腕に収まりが良い」
 ぎゅうっと抱きしめられたかと思えば、鶴丸は楽しげに笑う。
「国永!」
 慌てて腕の中から逃げ出した大倶利伽羅は、鶴丸を睨み付ける。
「伽羅坊は本当、かわいいなあ」
「かわいくなんてない」
 ふざけるなと大倶利伽羅が怒ったところで、鶴丸はただただ楽しげに笑う。
「…………国永」
「なんだ?」
「お前は光忠みたいに、突然いなくなったりするなよ」
 慌ただしかったけれど、貞宗は最後に鶴丸と大倶利伽羅に対して別れの言葉を告げてくれた。またいつか再会できる日を楽しみにしているという言葉を残して。またなと笑顔で立ち去った貞宗に、だからこそ寂しくはあったけれど、悲しくはなかった。
「安心しろ。いきなりいなくなったりなんかしないから。だから伽羅坊も、突然俺の前からいなくなるなよ」
 ぽんぽんっと頭を撫でる鶴丸に、大倶利伽羅は小さく頷いた。
「約束する。だから国永も」
「ああ、約束だ」
 約束事をするときには互いの小指を絡めるのだと、いつか貞宗に教えられた大倶利伽羅は鶴丸と小指同士を絡める。
「……やっぱり伽羅坊はかわいいな」
 絡めていた小指を離せば、再び鶴丸へと抱きつかれた。
「お前の成長をずっと、この目で見られたら良いのにな」
 何度となく鶴丸が主を変えていることは、大倶利伽羅も教えられて知っていた。
 遠くない未来に、どちらかもまた伊達家から去りゆく日が来るだろう。その日が少しでも先であることを、大倶利伽羅は願わずにはいられなかった。










「――嘘つき」
 鶴丸国永が伊達家から姿を消した。
 姿が見えないなと思えば、依り代である刀もまた伊達家から消えていた。てっきり持ち出されて、少しの間不在なのかとも思っていたが、一週間経っても、一ヶ月経っても、鶴丸が舞い戻ってくることはなかった。
 長期間不在になるときは、屋敷中が騒がしくなるからなんとなく分かる。一ヶ月も戻ってこない鶴丸に嫌な予感を覚えて人々の話を盗み聞けば、鶴丸国永は伊達家からその所有者を変えていた。
 二度と鶴丸は、伊達家へは戻ってこない。その衝撃は、燭台切がある日突然消えたときよりも大きかった。
「……あんたは嘘つきだ、国永」
 約束をしたのにと。
 どうしてなにも言わずに立ち去ってしまったのだと。別れの言葉を言う暇すらなかったのかと。どこに行ってしまったのかも分からない鶴丸を、大倶利伽羅は責め立てる。
 泣きたいほどに苦しくて、悲しいのに、涙は出なかった。ひとりでの泣き方を思い出せない。その胸をいつも貸してくれた鶴丸は、もういない。






「光忠も貞も、あんたでさえ俺を置いていくのかっ」






 依り代である刀の所有者を自分で選ぶことはできない。分かっていても、ひとり残された大倶利伽羅は、かつて共にいた同胞たちへと嘆きをぶつけずにはいられなかった。




to be continued...