Porbidden fruit    *Web用に一部改行してます。




 昔から女性が苦手だった。
 身近な女性である母親は、突然金切り声を上げたかと思えば近くにある物に当たる人だった。本や食器、リモコンにティッシュボックス、果ては観葉植物など、手に届くあるもの全てを金切り声を上げながら壁や床に延々と叩き付けたかと思えば、電池が切れた玩具のように暴れるのをやめたかと思えばその場に座り込み、ひとり泣きじゃくっていた。
 時に直接暴力をふるわれ、あんたなんか産まなきゃ良かったと母親から罵倒を浴びせられたこともあった。そんな母を物心ついたときから、ずっと見ていた。
 家にいれば暴力をふるわれるか、母親の金切り声か鳴き声のどちらかを聞かされる毎日に、玄関の扉の取っ手へと手が届くようになった頃には、ひとりで外に出かけるようになっていた。ただ母親の傍にいたくない一心で、雨が降っていない日はすぐ近くの公園のベンチに朝からぼんやりと座り込んでいた。
 食事も満足に与えられず、ガリガリにやせ細った子どもが公園のベンチでひとり、朝から晩まで座り込んでいた光景は周囲からは異様に映ったことだろう。ほんの少し寒いなと感じて、夏のある日に保護された。その日から母親である女とはこれまで一度も会うことはなかった。
 成長してから改めて母親の話を聞けば、母も可哀想な女性だった。夫である男は、自分を妊娠中に愛人を作っていた。仕事が忙しいと帰宅が遅い日が続くある日、母親は夫の愛人の存在を知ってしまった。もうすぐ我が子も産まれることもあって、愛人と別れてほしいと詰め寄れば、次の日から夫は自宅へと帰宅することはなくなった。
 子どもが産まれれば、きっと帰ってきてくれる。そう信じて子どもを産んだが、子どもが産まれたことを連絡しても夫は帰ってくることはなかった。ようやく面会が叶ったとき、残酷にも夫である男は愛人に子どもができたから別れてほしいと母へと突きつけた。多分その時に、母は壊れてしまったのだろう。
 きっといつか自分たちの元へと帰ってきてくれると信じた母は、離婚には承諾しなかった。けれど、いつまで経っても自分たちのところには帰ってこない夫に、心がそこまで強くなかった母は物や我が子へと苛立ちをぶつけるのに、そう時間はかからなかった。
 母に罪がないとは言わない。けれど、母もまた父であるはずの男の被害者だった。
 最早子どもは育てられないと判断された母の元から引き離された後は、一時施設に預けられた後、母の弟だという人に引き取られた。その時から、母親と同年代の女性は苦手だった。
 カウンセリングも受け、成長すれば多少マシになるかと思われたが、大人になった今も女性は苦手なままだった。トラウマを刺激する金切り声や怒鳴り声はもちろん、柔らかな体付きや長い髪もまた母を思い出してしまう。
 腕に胸を押しつけられたときには、こみ上げてくる吐き気を我慢することができなかった。その時にようやく、女性そのものが駄目なのだと大倶利伽羅広光は自覚した。











 母親を思い起こさせる女性は、総じて苦手だ。女性の胸を見ても惹かれることはなく、むしろ気持ち悪ささえ感じてしまう。広光にとって、女を匂わせるもの全てが忌避の対象でさえあった。
 恋愛対象どころか、女性に欲望を抱けない。思春期の頃にはそのことに思い悩んだこともあったが、思い悩んだどころでどうしようもできない。
 このまま誰とも付き合わずに、ひとりで生きていく。それでも良いかと思っていたが、どうしようもなく人肌が恋しくなる時もあった。
 女性が恋愛対象にならないのなら、同性である男性ならばどうだろうか。ふとした思いつきだったが、それも悪くないかもしれない。
 母の手から離れ、自分をその後育ててくれた叔父は厳しくも優しい人だった。彼に抱きしめられる度に、その優しさと温もりに心地よさと、言葉にできない嬉しさを感じていた。
 叔父に対して育てて貰った恩と、肉親に対する情こそあれ、それ以上の感情はない。ただ、大人の男性に抱きしめられる心地よさは今も忘れられなかった。
 女性が苦手だから、男に走ることへの迷いがないわけではない。そもそも異性である女性はもちろん、同性である男性にも、これまで広光は恋愛感情を抱いたことはなかった。ただただ大人の男性に抱きしめて貰いたい。そんな不純な動機ではあるけれど、何事も試してみなければ分からない。
 試しにその手の動画を見てみたが、知らなかった世界に戸惑いこそあれ、吐き気を催した男女のそれとは違い、男同士のものは吐き気はなかった。ただ、受け入れる側は痛そうという至極真面目な感想を抱いた広光は、そういった人たちが集まる場所をすぐさまインターネットで検索していた。
「隣、良いかな?」
 ひとりカウンターで静かにカクテルを飲んでいた広光は、掛けられた声に顔を上げた。
 インターネットでゲイが集まるお店を何軒か調べ上げた広光は、散々迷った末に次の日が休みである金曜の夜に店のひとつであるバーへと迷いながらも足を向けた。
 意を決してバーへと足を踏み入れてみれば、一見ただのバーだった。ただし女性の姿はまったく見られず、店内には男性しか見られない。
 場違いな感覚にすぐに引き返そうかとも思ったが、せっかくここまで足を運んだのだ。せめてお酒の一杯や二杯飲んでから帰るべきではないかと。広光はそっとカウンターへと腰を下ろしていた。
 そうして一杯、二杯と頼んだカクテルを静かに飲んでいれば、隣に誰かが立ったかと思えば声を掛けられた。見れば、同性である広光でさえ目を惹かれるほどに整った顔立ちをした男が立っていた。
 年の頃は広光よりも少し年上。まるで鴉のように濡れた黒髪の隙間から見える金色の目に、魂まで全て吸い込まれそうだった。もっとよくその目を見ていたいのに、右側だけ前髪を長くしたその下は黒い眼帯で覆われていて、残念ながら左側の目しか見えなかった。
 穏やかに微笑む男に、広光は悩んだ末にこくりと小さく頷いた。
「ありがとう」
 言いながら隣の席へと腰を下ろした男は、どこか困ったかのように笑った。
「君、ここがどんな場所が分かって来てる?」
「ゲイバー」
 即答すれば、男はかすかに目を瞠った。




to be continued...