とある恋物語 *Web用に一部改行してます。
[忘れられない恋]
触れ合った感触に、黒子はゆるゆると目を見開く。
これは一体、どういうことなのか。自分が置かれた状況を、黒子はすぐに把握することができなかった。
「……赤司、くん?」
掠れた声で、黒子はすぐ目の前にいる相手の名を呼ぶ。
名前を呼ばれて振り返った、一瞬の出来事だった。すぐに離れたことで実感こそないけれど、確かにお互いの唇が一瞬触れ合った。
たった一瞬。偶然だと、事故だったと片付けるには、赤司は全くというほど驚いていなかった。なにより、名前を呼ばれて振り返った瞬間、赤司がわざと顔を近づけてきたのを、黒子ははっきりと見ていた。
手を伸ばせば顔に触れられるほど至近距離に立つ赤司を、黒子は信じられないものを見るかのように見つめる。
相手が自分ではなく、可愛らしい女子マネージャーならば、紳士的だと影でささやかれている赤司もまた単なる男だったのだと驚きつつも、安堵していたことだろう。けれど、赤司が口づけたのは、影が薄いという特徴以外には平凡な同性だった。
罰ゲームかと一瞬疑ったが、そもそも赤司がこんな罰ゲームを受け入れるはずがない。では、これは一体なんなのか。
常にない真剣な眼差しの赤司に、黒子は気圧される。一歩黒子が後ずされば、その分赤司は距離を詰めていく。一歩、また一歩と後ずさっても距離を詰めてくる赤司に、ついには壁際まで黒子は追い込まれた。
「……あの、赤司くん!」
勇気を振り絞って声を上げれば、ふっと赤司は小さな笑みを口元に浮かべた。まるで面白がっているような笑みに、黒子は警戒をあらわにする。
「――忘れろ」
「えっ?」
「忘れるんだ、黒子。それが、お前のためだ」
呆然と見つめる黒子へと、溢れんばかりの満面の笑みを赤司は浮かべる。
驚きの連続で、黒子の頭はすでにオーバーヒートしていた。まともに思考することもできず、赤司のその言葉を素直に受け入れた黒子は、考えることをやめてしまった。
「良い子だ、黒子」
黒子の頬を、赤司は右手の甲でゆっくりと撫でつける。
「忘れてしまえ。そうでなければ、僕は――」
ぎゅっと目を閉じた黒子は、暗示のような赤司のささやきを黙って聞いていた。
「――黒子っち!」
こっちっスと恥ずかしげもなくテーブルから身を乗り出し、片手を振って自分の存在を大いにアピールしている黄瀬に、黒子は今すぐこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。それをなんとかぐっと堪えた黒子は、小さなため息をひとつこぼしてから、黄瀬が座っているテーブルへと近づいた。
「君、恥ずかしくないんですか?」
「なにがっスか?」
「いえ。聞いた僕が馬鹿でした」
きょとりと首を傾げた黄瀬に、まだ来たばかりだというのに黒子はどっと疲れた。同時に、呼び出された待ち合わせ場所が人気の少ないカフェで良かったと心の底から黒子は安堵した。
いまやモデルだけではなく、テレビにもその露出を広げた黄瀬は、モデルとして活躍している雑誌を買っている若い人たちばかりではなく、老若男女にその顔を知られていた。老いも若きも多くの女性から支持されている黄瀬がひとたび街中を出歩ければ、すぐに人だかりができるぐらいには、その人気はいまだ底知れない。
美味しいコーヒーを出すことでコーヒー好きには知られているカフェではあるが、その知名度は低い。知る人ぞ知る穴場だけあって芸能人である黄瀬が多少騒いでも、ちらりと盗み見られるだけで、その騒がしさに顔をしかめることはあっても、偶然居合わせた数人の客たちはすぐに視線を外した。
「初めて来ましたが、落ち着いた良い店ですね」
黄瀬の向かいの椅子へと腰を下ろした黒子は、ゆっくりと店全体を見渡す。
ゆっくりと落ち着くことができる空間。まさにその言葉が似合うカフェは、外の喧騒が嘘のように落ち着いた雰囲気が流れていた。鼻孔をくすぐるコーヒーの匂いは、苛立った心さえも落ち着かせてくれるような気がする。
「でしょ、でしょ。黒子っちなら気に入ってくれると思ったっス」
「しかし君、良くこんなお店を知ってましたね」
黄瀬には騒がしいイメージしかなかった黒子は、しみじみと言う。これまで待ち合わせとして呼び出された店や、キセキの世代と呼ばれたメンバーと集まるために黄瀬が予約した店は、どこも女性が好きそうな洒落た店ばかりだった。こういった趣のある店を黄瀬が知っていたことに黒子は驚いてさえいた。
「先輩に教えてもらったっスよ」
「先輩?」
「事務所の先輩っス。こういった落ち着いたお店も知っておいた方が良いって、この前連れて来られたんスよ」
「なるほど」
黄瀬自らが開拓した店ではないと知って、黒子は納得する。落ち着いた良い店ではあるが、黄瀬のイメージとはほど遠い。ましてや黄瀬の好きそうな店とは、このカフェは少々かけ離れていた。
[First love.]
「お父さま、すきなひとができました」
一緒に夕食を食べていた今年三歳になったばかりの息子から突然聞かされた告白に、赤司は目を瞬かせた。
大学を卒業してすぐに、父が勧めた相手と見合いし、結婚した赤司は、すぐに妻との間に一児の子を設けた。言わば政略結婚で妻となった女性は、それまで男女問わず周囲からちやほやされていた環境から一転、念願の跡継ぎである息子を産んでも自分に対して無関心な夫に対する当てつけか、夫である赤司の部下と浮気をした。
単なる浮気であれば部下の首を切って、火遊びもほどほどにと注意するだけに留めるつもりだった。あろうことか妻は夫である赤司に似た息子を虐待し、部下の子を孕むという醜聞をさらした。政略結婚で妻となった女性とはいえ、流石の事態を見過ごすわけにもいかず、ありとあらゆる手を使って息子の親権を取った赤司は、二年も経たずに結婚生活に終止符を打った。
あれからおよそ二年。
ベビーシッターこそ雇っているとはいえ、慣れぬ子育てに当初は戸惑いの連続だった。なにせ相手は言葉が通じない乳児。ちょっとしたことで泣き喚き、意味の分からない言葉を喚く乳児など見られないと投げ出したくなったこともあったが、それでも自分そっくりな我が子に、赤司は父親として頑張った。
今ではお父さまと慕ってくる息子を、元妻に任せっきりにしていたときとは比べようもないほどに赤司は愛おしく感じていた。それこそ、目に入れても痛くないほどに可愛い。そんな息子からの告白――。
「征一郎、それはどこの誰だ?」
わが子の心を射止めた不届き者はどこの誰だと。荒れ狂う内心をおくびにも出さずに、赤司は精一杯穏やかに尋ねる。
愛おしい我が子を、どこの馬の骨とも分からない輩にくれてやるつもりはない。場合によっては相手の存在そのものを消してやるという心積もりの赤司の心情など露知らず、息子――征一郎はにこやかに答えた。
「テツヤ先生です!」
「テツヤ先生……?」
目をキラキラと輝かせながら答えた征一郎に、それは誰だと赤司は小首を傾げた。
情緒教育も兼ねて、今年から征一郎は幼稚園に通っていた。てっきり幼稚園のお友だちの名前が出ると思っていただけに拍子抜けした赤司だったが、記憶にある教諭の名前にテツヤという先生はいない。征一郎が通う幼稚園の教諭の名前は全て頭に叩き込んだだけに、記憶にない名前に赤司は顔をしかめる。
「征一郎、そのテツヤ先生というのは誰だ?」
「ミユキ先生がサンキュウでこられなくなったかわりにきた、あたらしい先生です」
ミユキ先生なら、赤司もまた知っていた。征一郎のクラスの副担任である女性教諭だったはずだが、産休を取ったという話は初耳だった。知らせを受けていなかったことに思うところがないわけではないが、ようやくテツヤ先生というのが誰なのかという謎が解けた今、赤司の心配事はひとつだ。
「そのテツヤ先生というのは、男じゃないのか?」
誰がどう聞いても、テツヤというのは男の名前だ。まさか征一郎が好きな相手は同性なのかと、赤司はひどく動揺する。
「はい、テツヤ先生はぼくとおなじおとこのひとです」
力一杯頷いた征一郎に、赤司は息を呑む。
妻に離婚を切り出してから、大切に大切に育ててきた息子の初恋の相手が、まさかの男。これは育て方を間違えてしまったのかと、初めての子育てに四苦八苦していたとはいえ、懸命にこれまで育ててきた赤司は衝撃を受ける。
可愛い息子を奪う相手は、例えそれが愛らしい女性であろうとも憎たらしい。とはいえ、できれば可愛らしいお淑やかな女性を連れてきてほしいという願望もあった。
まさかそんなささやかな夢がガラガラと音を立てて崩れる日が、こんなにも早く訪れようとは。
「征一郎、明日はお父さんが幼稚園に連れて行こう。そのテツヤ先生を、お父さんに紹介してくれるかい?」
朝早く、夜も遅い赤司は基本、征一郎のために雇っているベビーシッターに送迎はもちろん、自宅を不在にしている間の世話を任せっきりにしていた。が、今回ばかりは征一郎の一大事と、多少出社が遅れることになろうとも明日はテツヤ先生に会ってどんな相手が確かめなければと、赤司はひとり決意する。
「はい!」
そんな父の心情など露知らず、珍しく赤司が幼稚園まで送ってくれると聞いた征一郎は、嬉しそうににこにこと微笑む。それに釣られるように、赤司もまた自然と笑みをこぼした。
あれほど子どもなど汚らしく、苦手だと思っていたのが嘘のように、我が子である征一郎だけは愛おしく思えるのだから不思議なものだ。この笑顔を守りたいと思いながらも、誰とも知らない相手に大事な我が子を譲るつもりは欠片もなかった。
今日幼稚園であった出来事を楽しげに話す征一郎の言葉に耳を傾けながら、ひとまず明日やらなければいけないことを赤司はリストアップしていった。
to be continued...