愛に溺れて、    *Web用に一部改行してます。




 大人の足なら十五分もあれば通り抜けてしまえるほどの小さな森の中に、その湖はあった。底から水が湧き出ているのか透き通った綺麗な湖のほとりで、まだ幼さを残す緑間は木の幹にもたれ掛かっていた。
 人の喧騒とは無縁なこの場所を、緑間は気に入っていた。小鳥のさえずり声と木々が擦れ合う音を聞きながら、ひとり本を読むことが緑間の唯一の息抜きだった。
 残りのページ数も少なくなり、そろそろ本を読み終わりそうな頃、その足音は聞こえた。滅多に人が立ち入らない森の中、明らかに動物ではない足音に緑間は音を立てないようそろりと読んでいた本を地面の上に置いた。代わりに持ってきた短刀を抜刀し、握りしめる。
 大貴族の嫡子である緑間は兄弟がいないこともあって度々命を狙われてきた。跡継ぎである子どもがいなくなれば、自身や我が子が当主亡き後莫大な財産を想像できると勘違いした分家の者たちや、緑間の家に恨みを持つ者たちの犯行だった。
 自分の命は自分で守れるようにと幼少期から徹底して身を守る術を学ばされてきた緑間は、短刀を構えると息を潜める。相手からは微塵も殺意は全く感じられなかったが、油断は禁物。先手必勝と、近づいてきた気配にタイミングを見計らって飛びかかれば、そこにいたのは見知った相手だった。
「くろ、こ……?」
 同じく大貴族と呼ばれる黒子家の嫡男である黒子テツヤの姿に、緑間は目を見開く。
 同じ大貴族という家の繋がりと、同い年ということもあって物心がつくかどうかの頃からの付き合いがある黒子とは、会えば会話を交わす程度には親しい付き合いだった。本気で驚いている黒子には敵意は一切なく、ましてや命を狙われる覚えもなかったことから、偶然居合わせただけだとすぐに判断した緑間は、構えていた短剣を下ろした。
「どうしてここにいるのだよ」
 すまなかったと剣先を向けたことを謝りながらも、偶然とはいえ、どうしてこんなところにいるのだと緑間は問いただす。
「ここに湖があると以前聞いたことがあったので、見に来ただけです。君こそどうしてこんなところに?」
「本を、読んでいただけなのだよ」
 地面に置いたままになっている本へと視線を落とせば、つられて黒子も視線を落として、本の存在を認めた。
「ここで、ひとりで?」
「悪いか?」
「いいえ。ここは空気も澄んでいて、落ち着いて本が読めそうですもんね」
 一年ほど前にこの場所を偶然見つけた緑間は、以来ここを隠れ場所としてたまに訪れていた。湖がすぐ近くにあるせいか、蒸し暑い夏場でも涼やかなこの場所を緑間は特に気に入っていた。
 これまで誰にも見つかることのなかった秘密の場所だったがまさか黒子に見つかってしまうとは。せっかくの隠れ場所だったが、見つかったからにはもう二度とこの場所は使えないなと表情にこそ出さなかったが、緑間はひどく落胆する。
「読書の邪魔をしてしまってすみません。誰も近寄らないと聞いていたので、人がいるとは思っていなくて」
「いや。気にしなくて良い」
 偶然居合わせてしまっただけの黒子を責め立てるつもりはなかった。運が悪かっただけだと、緑間は半ば諦める。
「緑間くん、今日のことはなにがあっても誰にも言いません。だから、安心して下さい」
 思わぬ言葉に、緑間は大いに戸惑った。
「なんで……」
「だってここ、緑間くんの隠れ場所でしょう? なら、誰かに言ってしまったら、もうここは隠れ場所じゃなくなるじゃないですか」
 大貴族の嫡男として両親や周囲から向けられる期待の重圧は生半可ではない。それに耐えてこそ跡継ぎたる資格があるとはいえ、重圧の重さに時折息苦しさを覚えていた。
 誰も知らない、誰もいないこの場所で、ひとり読書に勤しむことが近頃では緑間の息抜きになっていた。それを含めて黒子に見抜かれていたことに緑間は驚く。
「……青峰、にもか?」
 同じく大貴族の嫡男であり、同い年でもある青峰と黒子は、誰の目から見ても親友といえる関係にあった。その青峰に対しても秘密を貫けるのかと、戸惑いがちに緑間は問う。
 誰に対しても穏やかな態度の黒子とは違い、誰に対しても素っ気ない態度しか取れない緑間は、特定の誰かと親しくすることはなかった。会えば会話を交わす程度の付き合いしかしてこなかった緑間にとって、親友と呼べる相手に対する態度というものを図りかねていた。
「もちろんです。青峰くんたちに教えてしまったら、せっかくのこの静けさが台無しになっちゃうじゃないですか」
 人の喧騒から離れたこの場所に、声の大きい青峰を連れてきてしまったらせっかくの静けさが台無しだと。酷い台詞を黒子は平然と吐く。
「そうか」
「そうですよ。それと、秘密にする代わりと言ってはなんですけど」
 怖ず怖ずと申し出た黒子に、緑間は身構える。
「なんだ?」
「たまに、僕もここに来ても良いですか?」
 脅迫でもされるのかと、どんな条件を出すつもりだと身構えていた緑間は、黒子の申し出に拍子抜けする。
「お前だけなら構わないのだよ。俺がいても、気にしなくて良い」
 静かな黒子だけならば読書の邪魔をされることもないだろうと、緑間はあっさりと許可を出した。
 すれ違った際、前に読んだことがある本や、興味を持っていた本を黒子が持っている姿を緑間は度々目撃していた。誰かと読んだ本を語り合いたいと思っていた緑間は、できれば黒子とそういった話を一度交わしてみたいという下心が以前からあった。人目がある場所では話しかける勇気のなかった緑間は、この機会にと快諾する。
「ありがとうございます」
 嬉しそうに笑う黒子に、視線をわずかにそらしながら緑間は小さく頷いた。










「ああ、やっぱりいましたね」
「黒子」
 大木に寄り掛かりながらひとり読書に勤しんでいた緑間は、読んでいた本から顔を上げる。
「こんにちは、緑間くん。お腹、空いていませんか?」
 持ち上げたバスケットを顔の横で掲げながら、黒子は首を傾げる。食欲を誘う良い匂いに、食事を忘れて本を読みふけっていた緑間は、自分が空腹であることに気づく。
「……空いているのだよ」
「良かった。厨房にふたり分作ってくださいってお願いしていたんです。緑間くんが食べてくれるなら、残さずにすみそうですね」
 一緒に食べましょうと誘う黒子に、渋々といった様子で緑間は小さく頷いた。そんな緑間の態度に気分を害することなく、黒子はにこにこと楽しげに笑う。
 緑間の隣に腰を下ろした黒子は、バスケットから取り出したパンを持ってきた紙ナプキンに挟んで手渡す。それを受け取りながら、緑間は持っていた本を地面へと置いた。
 いただきますと声を掛けてから手に持つパンに齧り付いた黒子に、緑間もまたかぶりつく。
「近頃良く来るな」
「迷惑でした?」
「いや。ただ、良く会うなと」
 何かにつまずくたびにこの場所へと足を運んでいる緑間は、月に二.三度の頻度でこの森へと足を運んでいた。決まった周期もなく、何気なく足を運ぶ日もあるというのに、近頃五回に四度の割合でこの場所で黒子と会っていた。偶然にしてはあまりにも多い。
 今日もまた、緑間は黒子と会う約束を交わしていなかった。何気なくここへと足を運ぶことを決めたのだって、今朝のことだった。それなのにタイミング良く黒子は姿を見せた。しかもふたり分の食事を持って。色々と勘ぐりたくもなる。
「不思議なことに、今日は緑間くんがいるなって分かる日があるんです。その時ここに足を運ぶと、必ず緑間くんがいるんです」
「分かるのか?」
「なんとなくですけどね。もしかしたら僕たち、赤い糸で繋がっているのかもしれませんよ」
「冗談でも、そんなことを言うものではないのだよっ」
 くすくすと冗談交じりに話す黒子に、カッと顔を真っ赤に染めた緑間は、目をそらしながら厳しい口調でたしなめる。
「緑間くん、僕のことは嫌いですか?」
「急に、なにをっ」
 驚いてすぐに視線を戻した緑間に、黒子は静かに微笑む。
「僕は緑間くんのこと、好きですよ。緑間くんは?」
「……嫌いでは、ないのだよ」
 顔を真っ赤にしながら、緑間はためらいがちに答える。気分を害していないだろうかと横目で黒子の様子を窺えば、嬉しそうに笑っていた。
「嫌じゃ、ないのか?」
「何がですか?」
 首を傾げる黒子に、意を決した緑間は以前から気になっていたことを口にする。
「俺の、この性格だ。面倒臭いだろう」
 権力というのがまだよく分かっていなかった、今よりもっと幼かった頃。親に言われて親しくなろうとしていた同い年の子どもから、変だと、おかしいと、面と言われたことが度々あった。その頃から自分は人とどこか違うのだと自覚はしていた。
 変わろうと思ったこともあった。色々と努力をしてみたが、この性格を変えることは難しく、今日まで何ひとつとして変えられなかった。
 黒子にまで面倒な相手だと突き放されたらどうしようかと、緑間は急に不安を抱く。他の誰に面倒だと見放されたとしても傷つくこともなくなった。黒子だけが、緑間の心を掻き乱す。
「そうですか?」
 心底不思議そうに首を傾げる黒子に、緑間は戸惑う。
「君は君でしょう。他の誰でもありません。だから、今のままで良いと思います。面倒臭いと言う人には言わせておけば良いんです。だって彼らは、君の良いところを知らない人たちなんですから」
 乾ききった土に水が染み渡るかのように、その言葉は緑間の胸の奥底まで甘露のように染み渡る。
「そうか」
「そうです」
 くすくすと楽しげに笑う黒子に、緑間は頷く。
「ああ、そうだ」
 持ってきたカバンから本を取り出した黒子は、それを緑間へと差し出した。
「これ、ありがとうございます。とても面白かったです」
 先日黒子へと貸したばかりの本をもう読んだのかと、緑間は受け取る。
「面白かったか?」
 面白いと貸したこともあって、黒子もまた面白かったと思ってくれたことが、何より緑間は嬉しかった。
「はい、とても。緑間くんが読んでいる本は僕の趣味にいつも合うので、助かります」
「また今度、面白いと思ったのを貸すのだよ」
「楽しみにしています」
 自然と話は貸し出した本の話題へと移る。時に言い合いながら弾む会話に、緑間は心の底から楽しんでいた。
 いつまでもこんな穏やかな日々が続くと。何の疑問も抱くことなく、緑間は信じ切っていた。

 あの日、全ての平穏が壊されてしまう日まで――。

 己の無力さを、幼さを、緑間は齢十歳で嫌と言うほど思い知った。
 力がなければ、どんな正論も届きはしないのだと、その心に嫌と言うほど刻まれた。










 鷹の異名を持つ高尾は、気配にも敏感だった。研ぎ澄ました神経で周囲を探るが、どれだけ抑えようと思っても多少は滲み出てしまう殺意も憎悪も、なぜか微塵も感じられなかった。本能は確かに誰かが潜んでいると訴えているにも拘わらず。
 慣れぬ仕事の疲労で、勘が鈍ってしまったのか。戦時中はどれほど疲労していても勘が鈍ることのなかった高尾はショックを受ける。
 戦場の前戦から離れて八年。小規模な諍いごとで軍が派遣されることこそあるものの、大規模な戦争は八年前を最後に起こっていなかった。戦場で研ぎ澄ましてきた勘が、鈍り始めているのかもしれない。
 これも全て緑間のせいだと、慣れぬ仕事を押しつけて秀徳を留守にしている緑間に、心の中で思いつく限りの罵倒を高尾は投げつける。八つ当たりしてスッキリしたところで、かさりというかすかな音が気配を感じ取った茂みから、風に乗って聞こえてきた。
 木々が風で揺れた音ではなかった。
 明らかになにかが立てた音だった。人か、動物か。これで動物だと思えるほど、高尾の性格は楽観的ではない。
 タイミングが良いのか悪いのか、明るい光を放っていた月は雲によって覆われ、月明かりが消える。夜空に浮かぶ星の光以外何も見えない暗闇の中、高尾はゆっくりと息を吐き出した。
 神経を尖らせながら、帯刀していた剣を引き抜く。あとは、あっという間の出来事だった。
 音が聞こえたその場所へと瞬きする暇もなく距離を詰めた高尾は、目に留めたそれへと何のためらいもなく剣先を向けた。
 暗闇でも十二分に獲物を見分けることができる目を持つ高尾は、雲によって覆われていた月が再び姿を見せたその瞬間、こぼれんばかりに目を見開いた。


 ――透き通るかのような、青よりももっと澄んだ水の色。


 月明かりで浮かび上がったその色が、茂みの中でうずくまっている人の髪だと、すぐには気づかなかった。
 ぐったりとうずくまり、目蓋が伏せられたその顔色は白を通り越して青白かった。呼吸も浅く、胸は小刻みに揺れている。
 ボロ切れのような服から剥き出しになっている手足には、真新しいものからかなりの年月が経過している古いものまで、無数の傷跡が残っていた。どこからか逃げだし、力尽きたとしか思えないその姿から、気配が感じ取れなかった理由など考えずともすぐ知れた。
「おい、大丈夫かっ!?」
 構えていた剣を下ろした高尾は、慌てて駆け寄る。
 少年とは言い難いが、青年と言うにはまだどこか幼さが残る風貌をした相手を抱き上げれば、その体はひどく熱く、高尾は思わず驚いた。意識のない体というのは本来重いはずなのに、抱き上げた瞬間感じた異様なまでの軽さに、高尾は何より驚いた。まるで、骨と皮しかないのではないかと思うぐらい、その体はやせ細っていた。
 荒い息づかいに熱の高い体に、迷っている暇などなかった。抜いた剣を鞘へとしまった高尾は、軍服の上着を脱ぎ捨てると何のためらいもなく、それを意識を失った相手へと被せた。夜ともなればまだ冷え込むこの時期、ないよりはマシだろうという気遣いだった。
 横抱きで持ち上げれば軽々と持ち上がった体に、舌打ちが自然とこぼれる。
「死ぬなよな」
 せっかく見つけた命。こんなところで死なせるわけにはいかない。生きろと強く願いながら、高尾は痩せ細った体を抱き上げながら、自宅へと急ぎ帰った。



 実に三日振りに自宅へと帰れば、火が灯っていない部屋は冷え切り、薄暗かった。暖炉近くに置かれたソファーへと抱き上げていた体を横たえた高尾は、寝室から毛布を持ってくると、汚れてしまうのも構わずに、冷え切っている体を毛布でくるんで温める。
 暖炉にくべられたままの薪へと慣れた手つきであっという間に火を付けてから、高尾は慌ただしく包帯やら怪我をしたときに治療が必要なものが詰め込まれた救急箱と、水を張った鍋を用意した。鍋はそのまま暖炉の火にくべる。
 ある程度部屋も暖まり、火にくべた鍋の水が温まったのを確認してから、高尾は体に巻いていた毛布と、最早服とは言い難い布きれを剥ぎ取った。あらわになった全身には、至るところに大小様々な傷跡が残っていた。背中には明らかに鞭で打たれた傷もあり、長いこと虐待されていたことは誰の目から見ても明らかだった。
 浮き出たろっ骨に、ろくな食事も食べさせてもらえなかったのだろう。弱々しいまでの風貌も相まって、その姿はあまりにも痛々しかった。
 右の足首には奴隷の証だった足輪が付けられており、どこかの誰かが飼っていた奴隷であることは間違いなかった。過酷な環境に耐えきれずに思わず逃げ出してきたのか、それとも誰かから奴隷制度が廃止されたことを聞きつけて、うまく脱出してきたのか。どちらであったとしても、所有者に見つかる前に保護できて良かったと、高尾は安堵する。
 毎年保護される奴隷の数は、年々その数を減らしているとはいえ、いまだ尽きることがなかった。保護された奴隷の多くは奴隷制度が廃止されたことを知らず、過酷な環境に耐えながらも、奴隷として従事していた。
 奴隷制度が廃止される前までは、逃げ出した奴隷には厳しい罰が与えられる。食事が抜かれるならばまだマシで、背中へと鞭打ちなど当たり前の光景だった。
 お陰でどれほど過酷な環境であろうとも、厳しい罰の前に逃げだそうとする奴隷の数は少ない。それは、奴隷制度が廃止されてから八年経つ今も変わらない。
 元々奴隷を所持しておらず、奴隷という理由だけで劣悪な環境に置かれることを良く思っていなかった高尾は、あまりにも酷い状態に、吐き気すら感じていた。準備した道具で左足に付けられた足輪を切り落とした高尾は、さっさと手当てしようとして、手をとめた。




to be continued...