■仔猫の絵本-出会い編-




(何だ……?)


 大学の帰り道、土砂降りのように降り続ける雨に辟易しながら、暗闇の中傘を差して歩いていたアスランは、雨が降る音に混じって聞こえた『何か』に、ふと足を止めます。
 周囲を見渡しましたが、人影はおろか、変わったものは見受けられません。
(気のせいか)
 傘を持ち直し、再び歩き出したアスランは、今度こそはっきりと聞こえた音に再び足を止めます。
 か細いけれど、雨が降る音に混じって聞こえた音は『鳴き声』でした。
 石ころ1つ見逃さないように、再び周囲を注意深く見渡したアスランは、電柱の影に隠されたように置かれた段ボール箱を見つけました。
 目を凝らさなければ、きっと見つけることはできなかったでしょう。
 段ボール箱を見つけた瞬間感じた胸騒ぎに、アスランは慌てて段ボール箱に駆け寄ります。
 中を覗いたアスランは、驚愕で目を見開きました。
 なんと段ボール箱の中には、まだ幼い人猫がぐったりとした様子で横たわっていたではありませんか。
 温かいとはいえ、今日は土砂降りの雨が降っています。
 幼い人猫から体力を奪うには十分でした。
 慌てて人猫を抱き上げたアスランは、人猫の体が熱いことに気がつきました。
 よくよく見れば青白い顔色をした人猫の呼吸は浅く、とても苦しそうな表情をしています。
(誰が、こんな……っ)
 人間の子どもでいえば4,5歳ぐらいに見える人猫は、まだまだ親や飼い主の保護が必要です。
 保護がなければ簡単に死んでしまうことを、少しでもドールのことを知っているなら、知らないはずがありません。
 一体誰がまだ幼い人猫を捨てたのかと憤るアスランですが、誰の目から見ても、幼い人猫を捨てたのは何者なのかは、明白でした。
 博識な者が多いドールですが、彼らは人間以上に感情の生き物です。
 好きでもない相手との間に子どもを生むようなことは決してありません。
 つまり生まれてきた子どもは両親によって望まれた子であり、ドールの親にとって子どもは宝物同然です。
 捨てるなどということなど、あり得ないことでした。
 希少価値が高く、高値で売買されているドールですが、過去に捨てられたドールがいないわけではありません。
 捨てられたドールのほとんどは飼い主の勝手な都合によるものばかりで、おそらく腕の中にいるドールも、飼い主の勝手な都合によって捨てられたのでしょう。
 どんな理由があるにせよ、幼い人猫を捨て、小さな命を危険にさらした飼い主に、アスランは憤りを感じずにはいられませんでした。
 ふつふつと沸き上がる怒りを、顔も名前も知らない人猫の元飼い主に向けつつ、アスランは人猫を抱えなおすと、できる限り振動を与えないようにしながら、急いで自宅へと戻りました。





 ダブルベッドが置かれた寝室を、一対の眸がぐるりと見渡します。
 見たことのない部屋に、何度も眸をまばたかせた幼い人猫は、ふぇと声をあげて泣き始めました。
「かがり、どこ?かがりぃ」
 何度も何度も大切な片割れの名前を呼びますが、いつもならすぐに返ってくる返事が、今日に限ってはいつまで経っても返ってきません。
 とうとう幼い人猫が泣きじゃくり始めた頃、寝室の扉が開きました。
 寝室の扉を開けたアスランは、いつの間にか起きて、泣きじゃくっている幼い人猫を認め、慌てて駆け寄ります。
「どうした?怖い夢でも見たのか?」
「……だぁれ…?」
「アスラン。アスラン・ザラ」
 舌足らずな問いをなぜかくすぐったく思いつつ、アスランは幼い人猫を怯えさせないように、微笑みながら優しく答えました。
「あすらん、かがり、どこ?」
 幼い人猫にとって見知らぬ相手であるアスランは、どんなに優しそうな顔つきをしていようと、恐怖の対象でしかありません。
 ですが今は、怖いからといって縮こまっているわけにはいきません。
 どうしても大切な片割れの行方を知りたかったのです。
 アスランに怯えながらも、幼い人猫は勇気を振り絞って問いかけました。
 縋り付くような眼差しを向けられたアスランは、困惑するしかありません。
 アスランは目の前の幼い人猫のことを、なに1つ知りません。
 幼い人猫にとってカガリは大切な片割れですが、そのことすら知らないアスランは、幼い人猫の問いに対する答えを持っていませんでした。
「カガリは誰かな?」
「かがり、しらない?」
 怯えと、不安に揺れる眸で問いかけられ、アスランはたじろぎます。
 知らないとそう答えれば、おそらく目の前の幼い人猫は悲しむでしょう。
 ですが『カガリ』が誰なのか知らない状態で、迂闊に知っているとも答えられません。
 どう答えれば、幼い人猫を傷つけずに済むのかわずかな間にアスランは考えました。
「……まず、君の名前は?」
「きらはね、きらだよ」
「キラにとってカガリはご主人様?それともお母さん?」
「かがりはね、ふたごのきょうだいだよ」
 カガリという名の人物がキラの飼い主か母親のどちらかだと考えていたアスランにとって、キラの答えは衝撃的でした。
 人猫を始めとするドールのほとんどは、1回の出産で1人の子どもしか産みません。
 双子や三つ子が生まれないわけではありませんが、それは滅多にありません。
 そのため、双子や三つ子が生まれると、縁起が良いとされ、生まれてきた子どもたちは成人になるまで引き離さないのが通例です。
 キラが言ったことが本当なら、キラの飼い主は、縁起が良いとされている双子を捨てたことになります。
 キラの片割れであるカガリが今どうしているのかは分かりませんが、相手は縁起が良いとされている双子の片割れを捨てた奴です。
 わざと引き離したとも考えられます。
「じゃあキラのご主人様は?」
「ごしゅじんさま?」
 首を傾げるキラに、アスランは質問の仕方を変えてみました。
「カガリ以外に、キラが知っているのは誰?」
「まま!」
「カガリと、ママ以外では?」
 知らないのか、キラは首を横に振ります。
 キラの返事にアスランは困り果ててしまいました。
 土砂降りの雨の中、幼い人猫を捨てた飼い主を突き止めようと、キラが目を覚ます前からアスランは決めていました。
 キラを飼い主の元に返すためではありません。
 どんな理由があるにせよ、幼い人猫を土砂降りの雨の中捨てた飼い主に、社会的制裁を加えるためです。
 飼い主が故意にドールを危険にさらした場合、通常ならば飼い主には社会的制裁が加えられます。
 ですが、ドールの飼い主のほとんどは社会的に地位が高いものばかりのためか、あの手この手を使って、社会的制裁から逃れる者が多いのもまた事実です。
 まだ大学生であるアスランだけの力では、飼い主を突き止めるどころか、飼い主に社会的制裁を加えることもままなりません。
 ただのアスラン・ザラの力では何もできませんが、ザラ財閥の次期総帥であるアスラン・ザラならば、わずかな情報だけで飼い主を突き止めることも、社会的制裁を飼い主に加えることも容易です。
 ですが、ザラ財閥が巨大な組織であり、情報収集に長けているとしても、流石に名前だけではどうにもなりません。
 短時間で見つけ出させることばかり考えていたアスランにとって、あまりにも少ない情報では予定を変更するしかありません。
 ザラ財閥の情報網を駆使すれば、時間はかかるでしょうが、飼い主を見つけることはできるはずです。
 長期戦になることを覚悟の上で、素早くこれからの予定を組み直していたアスランは、不安そうに自分を見上げているキラに気づき、慌てました。
「どうした?」
「かがりは?」
 どこか期待が入り交じった眼差しに、アスランは黙り込みます。
 もし知らないと答えれば、キラは確実に泣くでしょう。
 ですが、このまま黙っていても事態は何の解決にもなりません。
「……ごめん、俺は『カガリ』を知らないんだ」
 意を決して、本当のことを告げたアスランは、次の瞬間後悔しました。
 ただでさえ大きな眸を、さらに大きく見開いたかと思えば、キラは大粒の涙を零して泣き始めてしまいました。
 カガリと、その名前だけをひたすら呼びながら泣くキラに、アスランは心が締め付けられます。
 本当のことを告げたことを後悔したところで、今さらどうすることもできません。
「………ふぇっ?」
 カガリを知らないと、そう告げたアスランに、キラはあまりの悲しさに泣き出してしまいました。
 ずっと一緒にいた片割れに会えないショックもあり、泣いていたキラでしたが、突然温かいものに包まれ、驚きでピタリと涙が止まってしまいました。
「……あすらん?」
 顔をわずかにあげれば、温かいものの正体がアスランの腕だとキラは気づきました。
 それまで怖いと感じていたアスランでしたが、腕の温かさに、不思議とそれまで感じていた恐怖心がなくなります。
(どうしてこわくないんだろう……?)
 アスランが怖くないことが不思議で、カガリに会えない悲しみで泣いていたことを、キラはすっかり忘れてしまいました。
「俺がこれからずっと一緒にいるから。カガリの代わりにはなれないだろうけど、それじゃあ駄目かな?」
「ずっと?」
「そう、ずっと」
 ずっと一緒にいるからと、その言葉はキラを不思議と幸せな気分にしてくれました。
 ぽかぽかと温かな気持ちに、ふと目蓋が重たくなっていくのをキラは感じます。
 頑張って目蓋をあげようとしますが、なかなか持ち上がってくれません。
 そうこうしている内に、目蓋が完全に上がらなくなってしまいました。
 実は今日で、キラがアスランに拾われてから3日経ちます。
 アスランがキラを拾ってから今日まで、キラはずっと高熱にうなされていたのです。
 その間必要な栄養分は点滴で補っていたとはいえ、3日間も高熱を出していたキラには、もうほとんど体力は残っていませんでした。
 起き上がってすぐに泣いた行為によって、残り少ない体力を奪われた体は、眠りを欲します。
 眠りを欲する体に抗うことなどできるはずもなく、キラは再び、眠りの世界に引き込まれていきます。
(このうでだ……)
 半分意識が眠りの世界に漬かって、ようやくキラは気づきました。
 寒くて、苦しい暗闇にいた時、ずっと抱きしめていてくれた優しい腕。
 あの時の腕の持ち主がアスランだと気づき、キラは嬉しくなりました。
 この嬉しさをなんとかアスランに伝えたいと思っても、すでにキラの意識の半分は眠りの世界にあります。
「キラ……?」
 それまで泣き続けていたキラが、抱きしめたと当時に泣きやんだことに安堵していたアスランは、ことりと胸に頭を預けたキラを、そっと呼びます。
 けれど返事は返ってこず、ゆっくりと顔を覗き込めば、穏やかな寝顔をキラは浮かべていました。
 起こさないようにそっとキラの体をベッドへと横たえようとしたアスランは、キラの口元が動いていることに気がつきました。
 何を言っているのか聞き取れず、アスランはキラの口元に耳を近づけます。


「あすらん……ずっと…」


 その後、アスランがキラの正式な飼い主になるのは、別のお話で。