好き




「千尋さん」
 いつもと変わらないやや低めの落ち着いた声。聞き慣れたその声は、けれどいつもと違う名前を紡いだ。
 思わずぎょっと目を剥いた黛は、一歩後ずさる。
「なんですか、その反応は」
 むっとあからさまに拗ねてしまった黒子にまずいと思いながらも、黛は戸惑いを隠せなかった。
「いや、だってな。お前こそ急にどうしたんだ?」
「千尋さんって呼んじゃ駄目ですか?」
「駄目ってわけじゃないが、本当に急にどうしたんだ?」
 なにかの切っ掛けがあって下の名前を呼ぶようになったのならともかく、前兆もなにもなかった。何かあったのかと勘ぐりたくもなる。
「昨日見たドラマで」
「ああ」
「恋人同士なら下の名前で呼び合うべきだと言っていたので、僕らもそうした方が良いのかと思いまして」
「…………」
 何度か目を瞬かせた黛は、盛大なため息を吐いた。
「黒子」
「テツヤです」
 違いますと言うように、黒子は訂正を入れる。それにむっとしながらも、黛は再度呼びかけた。
「黒子」
「テツヤ」
「黒子」
「……」
 呼び方を訂正する黒子に黛もついつい意地になれば、ぷいっとそっぽを向かれた。こうなれば呼び方を訂正するまで絶対に返事をしないことを、黛は嫌と言うほどよく知っていた。
 自分もどちらかといえば頑固な方ではあるが、黒子には負ける。意地の張り合いとなれば、いつだって黛が折れるしかなかった。
「……テツヤ」
「はい」
 仕方なくテツヤと呼べば、返事はすぐに返ってきた。
「確かに俺たちは付き合ってる」
「そうですね」
 紆余曲折を経て、同族嫌悪を抱いていた黒子と所詮彼氏彼女といった恋人同士になって早三ヶ月。二年以上もの長い間、嫌悪というよりも苦手意識を抱いていた黒子に対する距離の取り方をいまいち把握し切れていない黛に対し、黒子はどこまでも直球だった。
 好きですと告白された時はもちろん、黒子に対する態度に思い悩んでいたときでさえ、あっという間に距離を詰められてきた。人にとっては不快感を抱くであろう遠慮のなさは、けれどどういうわけか妙に心地よかった。
 あれは、ぽっきりと折れたとしても、いつだって真っ直ぐに立ち向かってくると。いつだったかクソ生意気な後輩の言っていた通りに。
 ぽっきりと折れたのなら、立ち上がることなんかできるはずがないだろうがと。頭が良いくせに、実はこの後輩は馬鹿なんじゃないだろうかと一時は思ったことがあることは墓に持っていく秘密だ。
「だからってな、昨日見たっていうドラマみたいに下の名前で呼び合う必要はないだろう」
 これまで通り、黒子と黛さんでなんら問題はないと。むしろ下の名前で呼び合っていることを奴らに知られたときのが弊害が多い。
「でも」
「黒子」
 なおも言い募ろうとする黒子に黛が有無を言わせないというように名前を呼べば、完全に拗ねてしまった。非常に面倒臭いことになったとこぼれ落ちそうになるため息を、黛はぐっと堪える。
「分かった」
 これはもう、自分が折れるしかないと。渋々と吐き出せば、ぱっと黒子は表情を変える。
「下の名前で呼び合っても良い。ただし、部屋でふたりっきりの時だけだ」
 条件付きの許可に黒子はあからさまに不満がるが、黛はこれ以上譲るつもりはなかった。
「それが嫌なら、部屋でふたりっきりになっても、俺はお前のことを黒子って呼ぶぞ」
「分かりました。今はそれで我慢します」
 どうすると黛が尋ねれば、渋々といった様子で黒子は引き下がった。
「けど、秘密の恋人ぽくてそれはそれで良いですね」
「そうか」
 機嫌が良くなった黒子に、黛は盛大なため息を吐いた。
 本当にこの恋人は、扱いが難しい。けれど多少の我が儘ぐらいなら聞いてやりたいと思うぐらいには、黛は目の前にいる年下の恋人のことを好いていた。
「黒子」
「はい」
「ちゃんと、好きだからな」
 滅多なことがない限り口にはしないけれど。きちんと好きだと。そうでなければ付き合っていないと。正式に付き合うことになった日以来初めて口にすれば、呆けていた黒子はさっと頬を赤く染めた。
「卑怯です」
「お互い様だろう」
 悔しげに睨み付けてくる可愛らしい恋人に、黛はひどく楽しげに笑いながらその頭をくしゃりと撫でた。
「ちょっ、やめてください! 髪の毛が乱れるじゃないですか!」
 くしゃくしゃになるまで撫でた結果、整えられていた髪の毛はあちこちに跳ねていた。
「お前はそのままでも十分可愛いよ」
「この、覚えてろ!」
 目に見えてはっきりと分かるぐらい首筋まで赤く染めながら吐き捨てた恋人に、黛は声を立てて笑った。
「覚えててやるよ」
「このっ」