最高のプレゼント
「それでね〜」
前を見ずに楽しげに友人とおしゃべりに興じていた女子生徒は、そびえ立つように前にいた人影に気づかずに自ら飛び込むかのようにその背中へとぶつかった。
「きゃっ」
思わぬ障害物に甲高い悲鳴を上げた女子生徒は、強かに打ち付けた鼻を片手で押さえながら顔を上げる。そこでようやく目の前に人が立っていたことに女子生徒は気がついた。
「あのっ、すみません!」
慌てふためきながら、女子高生はぶつかってしまった背中に向かって謝罪した。2メートルは超えていそうな長身の男子生徒が振り返り、もう一度きちんと謝罪しようとした女子生徒は、冷ややかに見下ろすその目にひっと短い悲鳴を漏らした。思わず隣にいた友人と抱きしめ合った。
「ああ、ごめんね。ちょっと彼、今虫の居所が悪くて」
周囲がざわめく中、無言で見下ろす巨人に怯えきった女子生徒ふたりの間に、どこからともなく現れたやさしげな風貌をした男子生徒が割って入ってきた。
「今度からはちゃんと前を向いて歩くんだよ」
こくこくと素直に頷いた女子生徒に、にっこりと男子生徒は微笑む。
「あとはオレに任せて」
「あの……」
「大丈夫だから」
ねっと笑いながらその背中を押してやれば、後ろ髪を引かれつつも、女子生徒ふたりは慌てた様子で立ち去った。その背が見えなくなるまで見送った男子生徒――氷室は、それまで浮かべていた笑みを消しながら振り返るなり、不機嫌もあらわな後輩兼相棒へと向かって呆れた眼差しを向けた。
「アツシ、なにをやっているの」
全くと呆れている氷室から、むくれたまま紫原は視線をそらした。
「朝から妙に機嫌が悪かったけど、なにかあったの?」
朝練のときから妙にそわそわして落ち着きがなかったが、そのときから機嫌は良くなかった。なにかあったのかと朝問いかけたときはなんでもないと返ってきたが、今の様子を見る限り、とてもじゃないがなにもないという言葉は信じられなかった。
「オレたちが上げた誕生日プレゼントが気に入らなかった?」
10月9日の今日は、なにを隠そう紫原の誕生日だった。エースである紫原に、どうせならばとチームメイト全員でお金を出し合って、紫原の好きそうなお菓子を買い込んで、プレゼントしたばかりだった。もらったときは凄く嬉しそうだったが、好きでもないお菓子でも混じっていたのかと、機嫌の悪い紫原に氷室は少し的外れな心配をする。
「………………じゃない」
「えっ?」
「お菓子じゃない。お菓子はむしろ、嬉しかった」
仕送られてくる月々のお小遣いは決まっている。バスケの特待生として入学したこともあって、バイトもできない紫原にとって月々仕送られてくるお小遣いだけが、お菓子を買える資金源だった。その中から日々やりくりしてお菓子を買い込んでいた紫原にしてみれば、誕生日プレゼントとして大量のお菓子をもらえるのはなによりも嬉しいことだった。
紫原の不機嫌な理由に他に心当たりがなかった氷室は、ひどく困惑する。
「アツシ、なにがあったんだい?」
時間が経つたびに不機嫌になっていった紫原に、周囲は怯えきっていた。普段は話し方もゆるく、ゆっくりとした動作をした紫原は女子生徒からも人気がある。が、ひとたび不機嫌になると、眼光鋭い眼差しとその長身のせいもあってか、誰もが近づけない恐ろしさがあった。
今朝は不機嫌だったが、怯えるほどの恐ろしさはなく氷室も油断していた。時間が経つにつれ少しずつ機嫌が悪くなっていく紫原に、紫原のクラスメイトから救助要請が入ったのは昼休みに入った直後のこと。助けてくださいとクラス代表で駆け込んできた後輩の姿に、寮暮らしとあって昼食は食堂で取る紫原を足早に追いかけてみれば、冒頭の光景が繰り広がっていた。
なにがどうなっているのだと。不機嫌もあらわな紫原に、氷室は有無を言わせずにその理由を問いただす。無言を貫き通そうとした紫原だったが、氷室の鋭い目に音を上げるしかなかった。
「アツシ」
「…………黒ちんが」
「黒子くん?」
兄弟の契りを交わした火神の相棒であり、自分の相棒である紫原の恋人でもある黒子の名前に氷室は小首を傾げる。
「昨日から、メールをしても黒ちんが返事をくれなくなった」
「それは……」
なんと返せばいいことなのかと、氷室は思わず黙り込んだ。
普段ならばいざ知れず、今日は年に一度しかない紫原の誕生日。恋人である黒子から誕生日メッセージのひとつやふたつ、電話かメールで来るだろうと心躍らせていただろうに、祝ってくるのは相棒やチームメイト、クラスメイトばかりで、肝心の恋人から電話はおろか、メールのひとつも来なければ不安になるのも仕方がない。
部活の疲れで眠ってしまって、日付が変わると同時にメールも電話もできなかったのかもしれない。それは仕方がないとして、朝になっても昼になってもメールひとつすら届いてなかった。季節の変わり目で体調でも崩したのかと心配でメールをしてみたが、返信もない状況に紫原は苛立ちも募らせていた。
「ケンカでもした?」
メールや電話越しではあるが、度々ふたりが喧嘩している姿を氷室は目撃していた。喧嘩をした翌日は誰の目から見てもはっきりと分かるぐらいに紫原は落ち込んでいることも多く、丸わかりだった。そんな日に限って、火神から黒子に関する愚痴の電話をもらうこともあって、喧嘩している姿を目撃せずとも、ふたりが喧嘩したことは筒抜けになっていた。
力なく首を横に振る紫原は、嘘をついているようには見えなかった。喧嘩が原因で連絡がつかなくなったのではないとしたら、向こうでなにかあったのか。
東京と秋田と離れた地にいることもあって、直接様子を窺いに行くことはできない。となれば、頼るべきはただひとりしか見つからなかった。
「じゃあ、ちょっとタイガに電話してみようか」
「室ちん」
お願いと力なく頼ってくる相棒に、任せろと氷室は力強く請け負った。
制服のポケットにしまっていた携帯電話を取り出した氷室は、すぐに火神の携帯番号を呼び出す。すぐさま携帯電話を耳に押し当てれば、すぐにコール音が耳に響いた。
1回、2回と続くコール音。そろそろ出るかと氷室は身構えるが、10回鳴ってもコール音が鳴りやむ気配はなかった。
時間を確認してみれば、すでに誠凛も昼休みに入っている時間。電話に出られない理由はなく、虚しいコール音だけが氷室の鼓膜を震わせる。
「……えっと、アツシ」
どれだけコール音が鳴っても出ない火神に、期待に満ちた目から一転、無表情になった紫原に氷室は慌てる。
「アツシっ!」
「室ちん、ごめん。今はひとりにして」
慰めの言葉も今は煩わしいと。冷えた目で見下ろす紫原に、氷室は掛けるべき言葉を見つけられなかった。
食堂に向かっていた足を反転させて、背を向けてしまった紫原を追いかけることもできず、氷室はしばらくの間廊下にひとり立ちつくしていた。
「アツシ、どうしたアルか?」
放課後、バスケの練習に興じる中、こっそりと近づいてきた劉が耳打ちしてきた。
てっきり休むかなにかするかと思われた紫原は、今日も真面目に放課後の体育館へと姿を見せた。ただその様子を見る限り、その機嫌は地を這っていた。
機嫌の悪い紫原に比較的慣れているバスケ部員たちでさえ、今の紫原は恐ろしいのか、決して傍に寄ろうとしない。むしろ怯えて練習どころではなくなっていた。
今日は帰って休めというのは簡単だが、それでは根本的な解決にはならない。あれから氷室は火神へとメールを送ってみたが、放課後の今になっても一向に返事がくることはなかった。
一体向こうでなにがあったのか。わざわざ紫原の誕生日を狙って連絡が取れなくなったことに色々と疑問は残るが、誠凛の様子を窺える相手がいない状態では探るべき術もなかった。
こぼれ落ちそうになるため息をぐっと堪えながら、氷室は困惑した様子を隠すことなく劉へと向き直る。
「黒子くんと連絡が取れなくなったそうだ」
「あの影少年アルか」
ふたりが付き合っていることを知っているのは、この場にいるのは氷室だけだ。なにも教えられていないとはいえ、紫原にとって黒子が特別な存在であることは劉もどこかで感じ取っているのだろう。それならば納得だと、劉はひとり頷いた。
「ついにアツシも振られたアルか」
「劉」
どこまでふたりの関係を知っているのか知らないが、言葉のニュアンスから嫌悪感はなかった。ただ、紫原の前では言うなという牽制を篭めて名前を呼べば、どこか楽しげに劉は笑う。
「分かっているアル」
「分かっているなら良い」
「氷室は過保護アルな」
なんとでも言えと冷ややかに一瞥しながら、氷室は身の入らない練習に戻ろうとした。手に持っていたボールを抱え直し、息を整えようとした氷室は、扉の前にたたずむ人影に思わず息を呑んだ。
「タイガっ!?」
どうしてここにと。悲鳴混じりに声を上げた氷室に、部員たちの視線が集中する。
慌てて火神へと駆け寄った氷室は、その姿を確かめるかのように全身くまなくぺたぺたと触る。一通り触って満足した氷室は、正真正銘火神であることをようやく認めた。
「一体どうして、こんなところに……」
東京にいるはずの火神がどうして秋田の高校にいるのだと。戸惑う氷室に、どこか困った様子で火神は片手で後頭部を掻いていた。
「引率というか、保護者代わりというか……」
はっきりとしない物言いに、氷室は目を瞬かせる。
「火神っ」
がしりと。氷室越しに伸びてきた手が、火神の頭を片手でつかんだ。
「アツシっ!」
なにをやっているのと。火神の頭をがっちりとつかんで離さない紫原に、氷室は慌てる。
「いてててっ!!」
悲鳴をあげる火神になんとかその手を離させようとするが、がっちりとつかんだ手は力強く、氷室の力では外すことができなかった。
「なにをやっているんですか、紫原くん! 火神くんから手を離して下さいっ」
どうやっても外れない紫原の手は、火神の影から現れた人影によって、あっさりと外れた。
「黒、ちん……」
「はい、僕です」
どうしてと。呆然と呟く紫原に、抱えるように持っていた布の袋を黒子は紫原へと手渡した。
「これをどうぞ」
「なにこれ?」
「誕生日プレゼントです。遅くなりましたが、誕生日おめでとうございます」
ぱちりと何度か目を瞬かせた紫原は、受け取った布袋の口を開ける。中には色んな種類のお菓子がぎっしりと詰め込まれていた。
「わざわざこれを届けに……?」
「それを抱えながらここまで、大変でした」
感謝してくださいと言い放った黒子を、抱えていた布袋ごと紫原は抱きしめた。
「ちょっ、紫原くんっ!?」
お菓子が潰れちゃいますよと慌てる黒子に、今はそれどころではないとさらに強く紫原はその体を抱きしめる。
「紫原くん……?」
ぎゅうっと抱きついたまま離れない紫原に、どうしたのだとその背をぽんぽんと叩きながら黒子は尋ねる。
「急に連絡が取れなくなったから、嫌われたかと思った」
「それは、ごめんなさい。どうせなら直接会っておめでとうって言いたかったので、メールにも電話にも出ませんでした」
理由を知れば怒るに怒れないとはいえ、今の今まで抱いていた不安を思えば手放しでは喜べなかった。
「今日会えたのは本当に嬉しかったけど、心臓に悪いから次からはちゃんとメールにも電話にも出て」
「はい。次からはやりません。ごめんなさい、紫原くん」
必死な様子に次はないと約束した黒子に、紫原はようやく安心したのかその腕を離した。
「改めて、誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、黒ちん」
恋人からのお祝いに、それまでの不機嫌から一変、ほわほわとした空気を漂わせながら喜ぶ紫原に、良かった良かったと氷室はひとり喜ぶ。
「ところでなんで火神がいるの?」
お前邪魔と。黒子に向けていた機嫌の良さとは一転、紫原は火神を睨み付ける。
「お前のところに行くっていう黒子に、監督が引率として付いていけっていうから仕方なく付いてきただけだっ!」
好きで一緒に来たわけじゃないと怒鳴る火神に、不満ながらも監督であるリコ命令ならば仕方がないと紫原はひとまず納得する。
今年の夏休み、長期休暇を利用して東京に戻った紫原は、晴れて長年の思いを実らせたこともあって黒子と共にどこかへと出かけようとしたが、合宿や練習でことごとく予定を邪魔された。ついには監督であるリコへと牙を向いた紫原だったが、にっこりと笑ったリコはそれはそれは恐ろしかった。赤司同様、紫原の二度と逆らわない人物リストへと見事に加わったこともあって、不満ながらもリコが決定したことならばと文句ひとつも言えなかった。
「今ここにいるってことは、今日学校は?」
平日の金曜日。振替休日で休みがあるとすれば、月曜か火曜だ。金曜である今日、学校が休みになる理由も思い浮かばず、氷室が思わず尋ねれば、黒子と火神はふたり揃って口をつぐんだ。
「さぼり?」
「さぼったアルな」
「監督の許可はもらった!」
監督とはいえ、リコは一生徒だ。教師ではなくリコの許可かと思うところがないとは言わないが、あのリコの許可をもらっているならばと誰もなにも言わなかった。
「黒ちん、いつまでこっちにいるの?」
そう、本日は金曜日。明日明後日は土日と休みだ。ついでに月曜日は祝日とくれば、紫原は思わず期待する。
「月曜は祝日ですから、月曜のお昼までここにいられます」
昼過ぎには東京行きの新幹線で帰るとはいえ、丸々2日は一緒にいられる計算になる。ぱあっと顔を綻ばせた紫原は、ぎゅうっと黒子へと抱きついた。
「黒ちん、嬉しい」
お菓子よりもなによりも、最高のプレゼントだと。喜ぶ紫原に、わざわざ秋田へと足を運んだ甲斐があったと、黒子もまた喜ぶ。
「室ちん」
皆まで言わずとも、氷室はあっさりと許可を出した。
「今日はもう良いよ。監督にはオレから話を通しておくから」
「じゃあ、よろしく」
言うなり黒子の腕を引っ張っていった紫原の背を、氷室はにこにこと見送った。
「タイガは?」
「監督から黒子と一緒に帰ってこいって命令されたから、俺も月曜の昼過ぎに帰る」
「じゃあ、それまで暇だね。一緒にバスケしようか」
「おうっ」