Fleuriste




 ジーンズにシャツの上にジャケットを羽織っただけのラフな格好で、青峰は地図を片手に公園の前で立っていた。
「ここが公園か」
 警察官になってから早七年。何度目かの異動辞令が下された青峰は、次に赴任する交番がある街へと、赴任前の休日を利用して足を運んでいた。
 使い古されたボロボロの地図を片手に街中を歩いてみてみれば、新興住宅と言って差し支えない街は、描かれている地図とはすっかりと町並みを変えていた。
 手に持っているボロボロになった地図は、警察官になった年に赴任した交番があった街の本屋で買ったものだった。これまで赴任した先では多少地図に描かれていない道や建物もあったが、それでも十分に役に立っていた。
 いまだ開発が進み、新たな道路や建物が作られ続けているこの街では、七年前に作られた地図は無意味に近かった。なにせあるべきものがなく、ないはずのものがありすぎる。
 青峰の目の前にあるはずの公園さえ、地図には描かれていなかった。日々地図が描き換わっているような街では新しく地図を購入しても、すぐには役に立たなくなりそうだった。
「地道に回るか」
 昔から勉強は得意ではなかった。暗記も苦手だったが、代わりに体を動かすことは好きだった。散歩がてら街を歩けば、ある程度は覚えられる。
 赴任前に街を覚えてしまおうと、ボロボロになった地図を丸めた青峰は、それをジーンズの後ろポケットに刺した。
「さて、どこから行こう」
 ひとまずはこのまま大通りを突き進もうと、青峰は花の匂いが立ちこめる公園前から立ち去った。










「迷った」
 役に立たないと一度はポケットにしまった地図を広げながら、青峰は今自分がいる現在地点を探していた。
 道行くままにふらふらと歩きながら、いくつか見つけた店の店内に入ったりしていれば、公園を見つけてからすでに二時間弱。自由気ままに街中を歩いていた青峰は、気づけば迷子と言っても差し障りない状態に陥っていた。誰かに道を尋ねようにも平日の昼間と言うこともあってか、周囲に人気は全くなかった。
 誰か人が通りかかるのを待つにしても、大きな店が並び立つ商業地ならともかく、平日昼過ぎの住宅地など滅多に人も通るはずもない。ひとまずこのまま道を突き進んで、出会った人に道を聞こうと決めた青峰は、来た道を戻ることなくひたすら突き進む。
 あまり歩くことなく開けた道路にたどり着いた青峰は、一軒の店を見つけた。

 Fleuriste――。

 看板に書かれた店の名前は読めなかったけれど、店先に溢れた色取り取りの花から花屋だというのは分かった。ちょうどいいと道を聞くために、青峰は店の扉をくぐる。
 花屋ということもあって、店内は先ほどの公園とは比べようもないぐらい花の匂いに溢れていた。店員の姿を探すべく店内を見渡すが、人の気配すら感じられない。あるのはただ、美しく咲く花たちだけ。
「留守か……?」
 客も来ず、短時間だけだからと店を空けているのだとしたらかなりの不用心だ。花屋としては大きめな店内を歩いていた青峰は、大きく育った観葉植物を見つけ、何気なく見つめる。
 花や植物にはあまり詳しくはないが、ここまで育てるのにどれだけの月日がかかるものなのだろうか。自分の面倒すらたまに見切れないことがある青峰は、ペットはもちろん、花や植物など育てたことは、小学校の宿題以外になかった。
 ただし、最早趣味とも言って良いザリガニだけは、学生の頃までは唯一育てたことがあった。警察官になってからというもの忙しさもあって、たまの休日にアクアリウムへと足を運んでは、そこで眺めるだけに留まっていた。
「お気に召しましたか?」
 人の気配もなく、突然聞こえてきた声に心臓が跳ねる。慌てて振り返れば、青いエプロン姿の青年がいつの間にか真後ろに立っていた。
「いつの間に……っ!?」
 本当に、人の気配など感じられなかった。付き合いの長い友人や同僚たちからは野生動物と揶揄されるぐらい、青峰は人一倍人の気配には敏感だった。それなのに――。
 声を掛けられるまで真後ろに立たれたことに気づかなかったことよりも、ひょろっとした体格をした目の前の青年がその相手だということに青峰は驚きを隠せなかった。
 武術の達人といった相手ならばまだ気配に気づけなかったのも頷ける。けれど目の前の青年はそういったこととは無縁な、はっきりと言ってしまえば、なまっちょろい野郎だったことにも青峰は戸惑う。
「驚かせてしまってすみません。火神君にもお客様は驚かせるなって何度も言われているんですけど、何分好きで驚かせているわけではないので」
 困ったように微笑む店員に、青峰は何度も目を瞬かせる。
「ここの店員?」
「はい、そうです。何かご用でしょうか?」
 儚げな印象を受ける優しげな風貌をした店員は、やはりどこからどう見てもそこら辺にいるひょろい青年だった。もしかしたら何かしらの武術か何かを極めているのではないかと注意深く探ってみるが、どこもかしこも隙だらけだ。青峰は思わず、頭の後ろを片手で掻いた。
「店を空けるなんて不用心だな。店の物が盗まれたらどうするんだ?」
 今日は非番ではあるが、ひとまず警察官の職務として客が来ない時間帯だろうが、店を空ける事へと不用心さを青峰はたしなめる。泥棒にでも入られれば、真っ先に急行するのは最寄りの交番勤務の警察官だ。つまりはこの場合、青峰の仕事だ。
「えっ?」
 本気で驚いている店員に、青峰は顔をしかめる。
「んっ?」
「あの、ずっと店にいましたけど」
 怖ず怖ずと告げる店員に、一瞬時がとまる。
「はあ!?」
「留守かっておっしゃりながら、店に入ってきましたよね」
「!?」
 まさにその言葉通りだっただけに、青峰は本気で驚く。
 確かにあの時、店内には自分以外の人の気配は感じられなかった。では、一体どこでそれを聞いていたというのか。
「僕、人より少し影が薄いんです。なので、人から認識されづらいというか。人だけじゃなくて、自動ドアにもかなりの頻度で認識してもらえません」
「それは……」
 人だけではなく、動きを検知して開く自動ドアにも認識してもらえないというのは、どれだけ影が薄いのか。もしもその言葉が本当なら、気づくことなく背後を取られた理由も納得がいく。
「そんな厄介な体質を持っているのに、接客は大丈夫なのかよ?」
「慣れてもらえれば、ここまで酷くないですよ。ただ、初めての方はお客様のように驚かれますけど」
「なるほど」
 どういう原理なのかは分からないが、中々に面白い体質だった。
「それでお客様、何かお探しですか?」
「あっ、いや。花を買いに来たわけじゃなくて」
 ようやく本来の目的を思い出した青峰は慌てる。
「道に迷ってふらふら歩いていたら、この店を見つけただけで、花を買いに来たわけじゃないんだ」
「ああ」
 朗らかに青年は微笑む。
「この辺は道が入り組んでいる上に、新しい道路ができたり、工事が頻繁にあるので迷子になりやすいんですよ。慣れた人間でないと一苦労するんです」
 くすくすと楽しげに笑う。
「それで、お客様はどちらに行かれたいんですか?」
「あー、ひとまずここから一番近い駅か、もしくは花の匂いがきつい公園のどっちか」
 立ち寄ったときに公園の名前を確認しておけば良かったと気づいても、後の祭りだった。あとできちんと確認しておこうと、青峰は心に留める。
「花の匂い? もしかしてその公園には、大きなイチョウの木がありませんでしたか?」
「そういえば、あったな」
 青々としたイチョウの葉が付いた大木が一本。あまりにも大きなその木は、青峰の記憶にもはっきりと残っていた。
「なら、店を出てすぐに左に曲がって下さい。そのまま真っ直ぐに進めば、大人の足なら十五分ぐらいでその公園に着きますから」
「はっ……?」
 あの公園を出発してから、すでに二時間は経っている。あちこちと寄り道していたとはいえ、相当な距離を歩いた。それが、たった十五分。
「この辺は道が入り組んでいると言ったでしょう。覚えちゃうと色々近道があって楽なんですが、そうでないと迷子になって、余計な時間がかかっちゃうんですよね」
 本当は真っ直ぐな一本道だったというのに、入り組んだ道を適当に歩いた結果、迷子になってしまったらしい。なるほど、ならばあの公園から二時間以上経っているのも頷ける。
「助かった」
「いいえ。お役に立てて何よりです」
「それと」
「まだ何か?」
「あのブーケっぽい花束、ひとつくれないか?」
 指差した先には、色取り取りの花で作られたミニブーケがいくつもあった。
「道案内ぐらいのことで、無理にお買い上げ下さらなくても構いませんよ」
「あんたな。こう言うときはもう少し良いものを勧めるもんだぞ。店の売り上げが悪いと、店長に何か言われないか?」
「店長にですか?」
 きょとんと目を瞬かせる青年に、何かおかしな事を言っただろうかと青峰は悩む。
「僕がその店長ですけど」
「はあ!?」
 本日何度目の驚きだろうか。
 てっきり大学生のバイトか何かだと思っていた青峰は、これ以上ないぐらいに驚いた。
「見えませんか?」
「見えないっていうか、単なる学生のバイトにしか見えねえぞ!」
「よく言われます」
「よくって……っ」
「実際は店長というか、この店のオーナーですね」
「はっ」
 もう何に驚けば良いのか、青峰には分からなかった。
「なら余計に商売気を出さなくてどうする。潰れたら食っていけないだろうが」
 ワンコインのミニブーケひとつなど、利益はたかが知れている。が、塵も積もれば山となる。少しの売り上げが店に貢献することもある。
「この店は趣味の延長みたいなものなので、そこそこの売り上げがあれば平気です」
「趣味ぃ!?」
「はい。いわゆる副業ですね。本業は別にあるので、ご飯はそちらで食べています」
 中々に面白い体質に加わって、目の前の青年の不思議さに青峰は興味が惹かれる。
「あんた、色々と面白いな。名前は?」
「黒子。黒子テツヤです」
「黒子テツヤか。なら、テツだな」
「はあ」
 一見バイトのような花屋のオーナー――黒子は、戸惑いがちに頷く。
「俺は青峰大輝。ひとまずはあの花束をひとつくれ」
「分かりました。どれをお買い求めですか?」
 何ひとつ動じることなく対応する黒子に、青峰は笑みを深める。
「テツが作ったのってどれだ?」
「このミニヒマワリとかの奴ですね」
「じゃあ、それをひとつ」
 差し色に水色の花が使われているミニブーケを青峰は指差す。
「はい」
 慣れた手つきでミニブーケを取った黒子は、持ち帰りように手早く梱包する。その傍らで財布を取り出した青峰は、値札に書かれた金額ぴったりを台の上へと乗せた。
「お買い上げ、ありがとうございました」
 小さな花束を黒子から受け取った青峰は、小さく微笑む。
「たまには花を買うのも良いな」
「花は人の心を豊かにさせてくれますから」
「なるほど」
 青峰は思わず納得した。
「近いうちにまた来る、テツ」
「はい、お待ちしております」










「ってことがあったんです」
 本日昼過ぎに来た面白い客のことを、仕事のパートナーであり、長年の友人でもある火神へと黒子は何気なく話した。
 この店をオープンさせるに当たっての出資やら何やらはオーナーである黒子が全て出したが、ある意味おままごとのように始めた花屋に付き合って切り盛りしてくれているのは火神だった。雇っているバイトたちの給料を出しても黒字を維持できているのは、火神のお陰といっても過言ではない。
「お前、それ、危ない奴じゃないのかっ!?」
 何あっさりと名前を教えているんだよと、火神は店先だというのに黒子を怒鳴りつける。
「そうですか?」
「そうですか、じゃねえだろう!! お前、前にストーカー被害遭ったことを忘れたのかよ!」
「ありましたね、そんなことも」
「ありましたねって……」
 絶句した火神は、今にも両手で頭を抱え込むような勢いだった。
「お前は本当にっ」
「でも火神君、あのお客様とあのストーカーはまるで雰囲気が違いましたよ」
 件のストーカーはどこか暗い雰囲気があった。対して今日会った不思議な客は、太陽のような明るさが印象的だった。黒子が大好きな日だまりの匂いがしそうな感じがして、中々の好印象だ。
「お前の言葉は当てにならねえよ。とにかく、近いうちにまた来るって言ったんだよな、その客」
「はい」
「なら、しばらくは一緒の時間に詰めるようにするから、そいつが来たらすぐに教えろ」
 以前ストーカー被害に遭ったとき、真っ先に色々と対応してくれた火神には逆らえず、黒子は渋々と言った様子で頷く。
「店先に立つのはたまの息抜きなのに」
 火神の監視の下、店先に立つなど息が詰まる。が、火神に逆らえない黒子には抵抗する術はなかった。
「嫌なら俺とバイトの奴らで店を回すぞ」
 本業の傍らで店先に立つ黒子が店先に立たずとも店は回せる。この店においては、オーナーである黒子よりも実質店を回している火神の言葉が絶対だった。
「どうぞ同伴して下さい」
 店先に立つために、黒子は早々に白旗を上げた。