■訪れる悲しみはまだ遠く




「――ルルーシュ!」
 背中にかけられた声を無視しながら、ルルーシュはひたすら廊下を突き進む。
 もし廊下に第三者の影でもあれば立ち止まって話を聞く振りぐらいはしてやっただろうが、スザクにとっては生憎と。ルルーシュにとっては幸運にも。廊下にはスザクとルルーシュ以外の人影はなかった。何度その背中に呼びかけても立ち止まる気配を見せないルルーシュに、スザクは仕方なく強硬手段に打って出た。
「……ねえ、怒ってる?」
 それまで懸命に背中を追いかけていたスザクは、走ってルルーシュの隣に並び立つ。隣を歩くスザクにちらりと視線を向けたかと思えば、ルルーシュはすぐに正面に視線を戻してしまった。あまりにも素っ気ない態度のルルーシュに、スザクは恐る恐る訊ねる。
「スザク、お前には俺が怒ってないように見えるのか?」
「問いかけに、問いかけで返すのは反則だよ、ルルーシュ」
 にっこりと笑っているのに、ルルーシュの目は全く笑ってはいなかった。むしろ怒りに満ちた目をしているルルーシュに、スザクは怯む。
「では言ってやろう。怒っている」
「ルルーシュ〜」
「情けない声を出すな! それでも男か」
「男だよ。そんなこと、ルルーシュが一番良く知っているじゃないか」
 ふて腐れながらも情事を匂わすスザクに、ルルーシュは慌てて立ち止まった。
「なっ、スザク、お前――!」
 一瞬で首まで真っ赤に染めたルルーシュの慌てように、可愛いなあと思ったが、それを口に出すような馬鹿な真似はしなかった。代わりに、目を見開いて絶句しているルルーシュの腰に腕を回したスザクは、腕にすっぽりと収まる華奢な体を抱きしめる。
「ねえ、怒らないでよ。今日は久しぶりにふたりっきりになれたっていうのに」
 学園にいるときは、常に誰かが傍にいて、ほとんど恋人らしい接触はできない。周囲に誰もおらず、ようやくふたりっきりになれたというのに、目の前の恋人は常になくつれず、スザクは少し焦っていた。
 この機会を逃せば、次にいつふたりっきりになれるか分からない。それはルルーシュも良く分かっているはずだ。いつになくつれないルルーシュに、スザクは不安さえ覚える。
「俺たちがふたりっきりになれない理由の大半は、お前のせいだろう。俺のせいじゃない」
「分かってるよ。でも、仕事なんだからしょうがないじゃないか。それより、ルルーシュだよ」
 痛いところを突かれたスザクは、とっさに話題をそらした。体力では勝っているが、頭脳に関してはルルーシュには決して敵わない。口喧嘩になろうものなら、敗北することが目に見えていたスザクの行動は早かった。
「俺? 俺がどうかしたのか?」
 話題をすり替えるなと訴える視線を無視して、スザクはルルーシュを抱きしめる腕の力を強めた。
「とぼけるつもり?」
「だから、なんの話だ?」
「近頃帰りが遅いって話だけど、どこで何をしているの?」
 つい最近手に入れた情報を、スザクはルルーシュへと突きつける。
「俺にだって、色々とあるんだ」
 気まずげに顔をそらしたルルーシュに、スザクは両の頬をつかんで、無理矢理顔を正面へと向ける。いつになく強引な態度を取るスザクに、ルルーシュは不快感をあらわに眉を寄せた。
「それじゃあ答えになってないよ、ルルーシュ」
 まるで妻の浮気を問い詰める亭主の気分だと、近頃全くというほどルルーシュを構ってやれなかったことに、スザクは苦い思いを呑み込む。
 ルルーシュはもてる。自分と付き合うまで、誰とも付き合ったことはないというのが信じられないぐらい、それこそ老若男女問わずに。
 何度か告白されたところを目撃したことがあると、生徒会メンバーから教えてもらったこともある。告白されても誰とも付き合わないのは、相手のことが好きではないからというのもあるだろうが、自分たちの正体をどこから知られるか分からないゆえの恐ろしさがあるからだろう。
 常に気を張って、一見冷たく見えるルルーシュだが、本当はすごい寂しがり屋だった。本人は頑張って隠しているつもりだろうが、幼い頃のルルーシュを知っているスザクには、意味のないことだ。
 寂しがり屋のルルーシュのこと。長く寂しい思いをさせてしまえば、寂しさのあまり他人を求めてしまうかもしれないという不安は尽きない。ルルーシュが求めれば、それこそ相手など選り取り見取りだからこそ、傍にいられない自分がいつ捨てられるとも限らなかった。
「それより、俺の帰りが遅いことを誰から聞いた?」
「ルルーシュ、はぐらかさないで」
 今度はルルーシュが話題をそらそうとした。思わず腕をつかめば、強くつかみすぎたのか、ルルーシュはわずかに顔をしかめる。
「うるさい。スザク、答えろ」
 痛いとも、離せとも言わずに、ルルーシュはスザクを睨み付ける。こうなってしまえば答えない限り、決して自分の質問にもルルーシュが答えないことを、短くもない付き合いでスザクは知っていた。仕方なくスザクは、白旗を上げた。
「ナナリーから、ルルーシュの帰りが近頃遅いって相談されたんだよ」
「一体いつの間に」
「数日前、仕事が早く終わったから窓から入って君を驚かせようと思ったのに、肝心の君はいないんだもん」
 数日前、思ったよりも仕事が早く終わり、せっかくだからと部屋を訪ねたというのに、肝心のルルーシュの姿は部屋のどこにもいなかった。仕方なくリビングに顔を出せば、慣れた様子でナナリーと咲世子のふたりが歓迎し、相手をしてくれた。その時にナナリーが、近頃ルルーシュの帰りが遅いことをスザクへと相談したのは、ある意味自然の成り行きだったのかもしれない。
「何度も言っているが、窓から入ってくるな。それと、男のくせにもんとか言うな」
 何度も注意されてはいるが、いつも侵入する際に使かっている窓の鍵が閉められていることは一度もなかった。窓から入るなと言うのなら、侵入する窓の鍵を閉めれば良いのにと、間違ってもそれを口にはしない。そんなことを口にした日には、窓の鍵が閉められるのを分かっているから。
「ルルーシュ、冷たい……」
 冷ややかな眼差しを向けるルルーシュに、ぐずるようにスザクは抱きつく。
「……ああ、もう!」
「ルルーシュ……?」
 片手で頭部の後ろをかいていたかと思えば、ルルーシュは急に大声を出した。思わず驚いたスザクだったが、ぎゅっと抱きついてきたルルーシュに、今度は戸惑う。
「少し、厄介な相手に目をつけられてな」
「それって……」
 相手は誰だと問いかけようとしたスザクに皆まで言わせず、ルルーシュはかぶりを振る。
「まだ身元は分かってないが、そう長くもかからないだろう」
 老若男女問わずにもてるルルーシュは、中性的な容姿もあってか、変態にも好かれやすい。幼い頃から付け狙われていたこともあって、対処は慣れたものだった。ルルーシュが大丈夫だと言うのならそうなのだろうと、スザクはほうっと安堵する。
「そう、良かった」
「そんなことよりも、お前だ」
「僕?」
 なんのことと首を傾げてみせるスザクに、ルルーシュは呆れた様子を隠すことなく、ため息をつく。
「仕事、仕事で俺を放っておくな。長いこと放っておくつもりなら」
 そうだなと思案していたルルーシュは、
「浮気するぞ?」
 艶やかに微笑みながらスザクへと顔を寄せ、耳元で甘くささやいた。ぱっと耳まで顔を真っ赤にさせたスザクだったが、浮気と聞いて慌てる。
「そんなの駄目だ!」
「なら、適度に会いに来い。何もデートをしろと言っているわけじゃないんだから、難しくはないだろう」
「……善処します」
 浮気と聞いて即座に反応したにも拘わらず、適度に会いに来いというそれにはためらったスザクに、ルルーシュは不満をあらわにする。それでも善処すると言ったスザクを信じてか、それを口にすることはなかった。
「ルルーシュ、好きだよ」
 せめてもと、スザクは想いを告げる。何も約束はできないけれど、せめて変わらない想いは知っていてほしいと。
「知っている」
「ルルーシュ、もっとこう、雰囲気を大切にしようよ」
 素っ気ない態度のルルーシュに、スザクはがくりと肩を落とす。
「ヘタレが何を言っている」
「ヘタレって……」
 ふっと鼻で笑ったルルーシュに、スザクは絶句する。その隙をついてスザクの襟をつかんだルルーシュは、そのままその体を引き寄せた。
「――なっ!?」


 ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。


「これしきのことで顔を赤くさせる奴が、ヘタレ以外の何者だって言うんだ?」
 すぐにつかんでいた襟を離したルルーシュは、不敵な笑みを浮かべる。ようやく赤みが消えかかっていたスザクの顔は、再び真っ赤に染まっていた。
「……ルルーシュのバカっ」
「今、なんて言った、スザク?」
「ご、ごめんなさい、ルルーシュ!」
 バカと言われる筋合いはないと腹を立てるルルーシュ、スザクは慌てた。感情的になったルルーシュと喧嘩になろうものなら、昔からスザクに勝ち目はなかった。これ以上機嫌を損ねられる前にと、即座に謝罪の言葉を口にする。
「分かればよろしい」
 ひとまず機嫌を損ねることのなかったルルーシュに、スザクは安堵する。
「……ねえ、ルルーシュ」
「なんだ?」
「僕のこと、好き?」
「好きじゃなければ、抱かれたりしない」
 きっぱりと言い切ったルルーシュに、スザクは視線をさまよわせながら口籠もる。
「……そりゃあ、そうだけど」
「スザク、さっきよりも顔が赤いぞ」
 からかうルルーシュに、ふいっとスザクは顔を背ける。
「ルルーシュが、思い出させるようなことを言うからっ」
「全く。何度俺としていると思っているんだ?」
 幾度となく肌を合わせ、それ以上に唇を重ねてきた。今さら純情ぶるような関係ではないだろうと、ルルーシュはスザクへと指摘する。何より先に仕掛けたのはスザクだ。
「ルルーシュ!」
 かっと、スザクはさらに顔を赤くさせる。
「うるさい」
「ごめん……」
 冷ややかに叱るルルーシュに、スザクはしょんぼりと落ち込む。全くと呟きながら手を伸ばしたルルーシュは、両手でスザクの頬を包み込みながら、その顔を覗き込む。
「一体どうしたんだ? 突然好きなのかと訊ねたりして。いつものお前らしくないぞ」
「だって……」
 口籠もりながら、スザクはルルーシュから目をそらした。
「安心しろ。この世の中で、お前は二番目に大事だよ」
「……一番は、ナナリー?」
 出会ったときから、ルルーシュの一番はナナリーだった。
 自分の足で歩くこともできず、光の射さない目を持つ妹を、ルルーシュはひどく大切にしていた。それこそ周囲の人間が立ち入れない雰囲気すらあるふたりを、周囲はいつも微笑ましそうに見つめていた。
 スザクもまたそのひとりだが、誰よりもルルーシュに思われるナナリーがうらやましいと、嫉妬にさえ駆られる。どんなに想ったところで、ルルーシュの一番にはなれない。愛し、愛されているはずなのに、ルルーシュの中での優先順位はいつだってナナリーが一番だった。それが、時にひどく妬ましい。
「当然だろう」
 何を当たり前のことをと告げるルルーシュに、分かっていたこととは言えスザクは肩を落とす。
「分かってはいるけど……」
「俺の一番でなければ、嫌か……?」
 ルルーシュの一番でなければ嫌だと言えば、きっとあっさりと別れを告げるだろう。ルルーシュの一番になりたいけれど、それ以上に別れるつもりのないスザクは、かぶりを振る。
「別れるとか、そう言うのはなしだよ」
「ナナリーが反対しない限りは、そう言うことは言わない」
 何を差し置いても、ルルーシュが優先するのはナナリーだと分かっていて付き合っていても、やはりそれを口にされるのはひどく辛かった。
「ねえ、もしもだよ」
「今度はなんだ?」
「もしもだよ。僕とナナリーが溺れていて、どちらかひとりしか助けられなくて、助けられなかった方は溺れて死んじゃうとしたら、ルルーシュ、君はどちらを選ぶ?」
 答えなど決まっている。分かっていても、愚かにもスザクは訊ねずにはいられなかった。わずかな希望を込めて。
「スザク、お前、泳げなかったのか?」
「もしもの話だって言っただろう!」
「当然、ナナリーを助けるに決まっているだろう」
「やっぱり……」
 分かっていても、スザクはひどく落ち込んだ。
「その後」
 ぽつりとこぼれた呟きに、スザクは慌てて顔を上げる。
「ナナリーがひとりで生きられるようになったら、任せられる奴を見つけたら、お前の後を追ってやる」
 一番は、ナナリー。それはルルーシュの中で永遠に変わらない。でも、誰よりも愛しているのは――。
「ルルーシュ……」
「それじゃあ、駄目か?」
 不安で揺れているルルーシュの瞳に気づいたスザクは、目を瞠る。
 ルルーシュもまた不安なのだと。愛しているのに、スザクが一番でないことに。愛しているからこそ、スザクを一番にできないことが。誰よりもルルーシュが不安を抱いていることに、今日まで気づけなかった己の未熟さをスザクは痛感する。
「ううん。そんなことないよ」
 すぐ目の前にある体を、スザクは強く抱きしめる。その温もりを確かめるように、互いの温もりを分け合うように、強く。
「大好きだよ、ルルーシュ」
 抱き返してきたその腕に、スザクはそれだけで満足だった。







 そろそろ時間だからと、慌てて帰宅するスザクの背中をルルーシュは見送る。その姿が完全に見えなくなってから、真っ直ぐに前を見つめながら、誰もいないはずの廊下に向かってルルーシュは声をかけた。
「気づかれなかったから良かったものを、後をつけてくるな」
「なんだ、気づいていたのか」
 くすくすと楽しげに笑いながら、それまで気配を絶っていたC.C.は、ルルーシュの背後にある影から音もなく姿を現した。やはりいたかと、苛立ちを隠すことなく、ルルーシュは顔をしかめる。
 軍人であるスザクは、気配に敏感だ。今回はどうやら気づかれなかったから良かったものを、もしも気づかれたらどうするつもりだったのか。それこそゼロと行動を共にしているところを見られているだけに、スザクの姿が見えなくなるまで、ルルーシュはいつ気づかれるかと気が気ではなかった。
「尾行には敏感でね。それで、何かあったのか?」
 幼い頃から、度々命を狙われていたルルーシュは、人一倍尾行には敏感だった。それこそまだ皇子だった頃、隠れて護衛していた兵士にすら気づけたほど、人の気配には敏い。
「特になにも」
「C.C.」
 用がなければ、部屋で大人しくしていろと暗に告げるルルーシュに、C.C.は笑う。
「うるさい男は嫌われるぞ」
「関係ない」
「ああ。あの男は、お前がお前でさえあれば、それで良いのか」
 C.C.が言わんとしていることを察したルルーシュは、ようやく振り返る。黙れと睨み付ければ、飄々とC.C.はそれを受け流す。
「契約はすでになされている。今さら破棄はできないぞ」
「破棄をするつもりはない」
「あの男の後を追うと約束したと言うのに?」
「あれは、全てが終わった後の話だ。契約は、その時点で終わっているはずだろう」
 ナナリーが望む、やさしい世界を。それこそがルルーシュの望みであり、そのためにC.C.とも契約を交わした。だからこそ、その望みが叶えられたとき、C.C.との契約も完遂しているはずだと。
 そう、ルルーシュを縛り付けているものは、全てなくなっている。
「……そうだと、良いな」
 ぽつりとこぼしたC.C.の呟きは、ルルーシュの耳にまで届かなかった。
「C.C.?」
 なんと言ったんだと問い返すルルーシュに、C.C.はその目を真っ直ぐに見つめる。
「ルルーシュ、大切なものほど、遠ざけておけ。後悔するのも傷つくのも、お前自身だ」
「C.C.……?」
「傍に留めておくつもりなら、傷つくことを、傷つけることを覚悟しろ」
 誰のことを指しているのか。このときルルーシュは、ナナリーのことを言っているのだと勘違いした。
「ナナリーのことなら、すでに対策は練っている」
 違うと、C.C.はあえて訂正しなかった。するつもりもなかった。
 ルルーシュ自身が気づかなければ、言葉の意味を理解する日は来ないだろうから。


「……あの男がお前の敵に回ったとき、それでもお前は、ブリタニアを壊せるか?」


 背を向けて歩き出してしまったルルーシュの背中を遠くに見つめながら、C.C.は誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりと呟いた。