■天の川に願い事を




「七夕祭りですか?」
 不思議そうに尋ねる安室に、コナンと共にポアロへとお茶をしに来ていた蘭は大きく頷いた。
 七月に入った初日。そういえば一週間後は七夕だったなと、安室はもちろん、コナンもすっかりと忘れていた年間行事を思い出す。
「はい! 米花町では毎年恒例のお祭りのひとつなんです。安室さんも参加しませんか?」
 どこか困ったように笑う安室に、もしかしてと蘭は顔を曇らせる。
「すでにご予定が入っている、とか?」
「午前中にちょっと。午後は多分大丈夫だとは思うんですが、何時に始まるんですか?」
「ちょっとした屋台とかもあるので、お祭りそのものは十四時からです。小規模の花火大会もあるんですが、それは十九時半開始で、毎年大体二十時過ぎに終わります」
 無理そうですかと小首を傾げる蘭に、安室はにっこりと笑った。
「流石に十四時は無理ですけど、花火の打ち上げまでには行けると思いますよ」
「本当ですか!?」
 ぱっと笑顔を浮かべた蘭は、持ってきたバッグへと手を伸ばした。事の成り行きを黙って見舞っていたコナンと安室のふたりは、揃ってその動きを目で追う。
「蘭ねーちゃん?」
 なにやら探している様子の蘭に、一体どうしたのだとコナンは声をかける。それに答えることなく、蘭はバッグから目的のものを見つけるなり安室へと差し出した。
「安室さん、よろしければこれどうぞ!」
 差し出された細長い一枚の紙に、安室はきょとりと目を瞬かせる。
「短冊です! 七夕祭りの参加者は全員短冊にお願い事を書くことになっているので、安室さんもぜひ!」
 七夕といえば短冊だ。参加できるかもしれないと言ってしまった手前、安室透という人物像から受け取らないという選択ができなかった安室は、素直に差し出された短冊を受け取るしかなかった。
「叶えたいお願い事、ぜひ書いて飾ってくださいね」
 にこにこと笑う蘭に笑顔で頷いた安室を、コナンはアイスコーヒーをストローで飲みながら、子どもの姿には似つかない鋭い目で探るように静かに見つめていた。








 そうして迎えた、七夕当日である七月七日――。
 晴天で迎えられた今日この日、米花町は朝からすでに賑やかだった。普段から人通りがあるとはいえ、出店が並ぶ今日はいつにも増して人が多かった。
「コナン君、短冊書いたー?」
「えっ」
 ひとり短冊を目の前にして頭を悩ませていれば、ひょこりと顔を覗かせた蘭に、まだなにも書いていない短冊を見つけられてしまった。
「あっ、まだ書いてない!」
 安室が短冊を受け取ったあのあと、コナンもまた蘭から短冊を受け取っていた。これにお願い事をひとつ、なんでも良いから書いてねと言われて素直に受け取ったは良いが、見た目こそ小学一年生の子どもとはいえ、中身は歴とした高校一年生であるコナンにしてみれば、短冊に願い事を書いてまで叶えたいことなどなかった。――否、正しくは、お願いしてまでも叶えない願い事はあったが、それを短冊に書くのははばかれた。
 もしも願い事を叶えてくれるというのなら願い事はひとつ。今すぐにでも工藤新一に戻りたい。ただ、それだけだ。
 流石に工藤新一に戻りたいと蘭の前で書けるはずもなく、ましてや誰の目に触れるとも分からない短冊に書くわけにもいかなかった。
「早く書かなきゃ。お願い事、叶わないわよ?」
 ――短冊に書いたぐれえで、願い事が叶うわけがないだろうが。
 相変わらずメルヘンチックな思考だなと思いながらも、小学一年生がそんなことを言っては不審がられると、コナンは笑って誤魔化した。
「たくさんあって、どれを書こうか迷っちゃって」
「まだたくさん短冊あるから、持ってこようか?」
 どうせなら全部書けばいいと勧めてくる蘭に、コナンは慌てる。
「いいよ! それにお願い事はひとつにしておかないと、叶わないでしょう?」
 たくさん書くよりも、たったひとつの願い事をと。にっこりと笑いながら言えば、ぱちりと目を瞬かせた蘭は、それもそうねと納得してくれた。
「じゃあ、とっておきのお願い事を書かなきゃね!」
「うん!」
 にっこりと笑った蘭は七夕祭りの準備で忙しいのか、慌ただしく部屋を出て行った。ほっと安堵のため息をついたコナンは再び短冊へと向き直った。
「これはもう、あれだな」
 ある意味一番無難なお願い事を、コナンは短冊へとしたためた。






 綺麗な夕日が空を彩る頃。
 半ば無理矢理蘭の手によって着せられた浴衣を身にまといながら、これまた浴衣を着た蘭と一緒に、コナンは米花町の七夕祭りに参加していた。夜には小規模とはいえ花火が上がるということで、昼間よりさらに多くの人が集まっていた。
「晴れて良かったね、コナン君」
「うん!」
 去年は残念ながら雨が降ってしまったこともあり、花火が中止になってしまった。そのリベンジというように熱く燃えていた町内会一同に、どんな花火が上がるのかコナンもまた内心では期待していた。
「蘭さん、コナン君」
 聞き覚えのある落ち着いた低い声に、蘭とコナンは振り返る。
「安室さん!」
 白いワイシャツに黒のベスト、黒のパンツという出で立ちで現れた安室に駆け寄る蘭に、コナンもまたあとに続く。
「良かった。用事、終わったんですか?」
「ええ。なんとか終わらせてきました。浴衣姿もまたお綺麗ですね、蘭さん」
「やだ、そんな!」
 安室の言葉に頬を赤く染める蘭に、コナンは内心面白くなかった。
 浴衣姿を褒められて喜ぶ蘭も蘭だが、お世辞とはいえ褒める安室も安室だ。ただ、蘭の浴衣姿が綺麗なのはコナンもまた認めるところだ。
「コナン君も」
 きょとりと目を瞬かせながら、コナンは顔を上げる。
「可愛いですよ」
「あ、ありがとう」
 子どもとはいえ、男。それも中身は高校一年生の野郎が可愛いと言われても嬉しくもなんともない。とはいえ、何も言わないのもあれかと、コナンはひとまずお礼だけは言っておいた。
「ところで毛利先生は?」
 三人一緒にいる姿が多いというのに、小五郎の姿はどこにも見られなかった。きょろきょろと周囲を見渡す安室に、蘭はああと低い声で応じた。
「父は町内会の人たちとお酒飲んでいる最中です」
 お酒が飲めるとあれば我先にと参加する小五郎は、お祭りが開始する頃にはすでにできあがっていた。明日の朝は二日酔いになった小五郎が蘭に叱られている光景が目に浮かぶと、コナンは乾いた笑い声をもらす。
「そ、そうですか」
 大体の状況を察した安室は苦笑いする。
「蘭ー!」
「あ、園子!」
 手を挙げて駆け寄ってくる親友の姿に、蘭は安室とコナンのふたりへと視線を向ける。
「もしよろしければ、コナン君は僕が見てましょうか?」
「良いんですか?」
「もちろんです。蘭さんはどうぞ、お友だちのところへ」
「じゃあ、お願いします。コナン君、安室さんのいうことをちゃんと聞いてね」
 しっかりと言い聞かせると、安室へとありがとうございますと言って駆け出した蘭を、コナンは大人しく見送った。合流とした園子となにやら楽しげに笑い合っている蘭を眺めながら、隣に立つ男をこっそりと眺めていたコナンは、意を決して安室へと尋ねた。
「僕になにか用事?」
「いいや。なんでだい?」
「蘭姉ちゃんに聞かれたくない話をしたそうにしていたから」
 はっきりと言えば、何度か目を瞬かせた安室は楽しげに笑った。
「ああ、うん。ある意味、当たってるかな」
「一体なに?」
 黒ずくめの組織に関することかと身構えるコナンに、安室は静かに微笑む。いぶかしげに顔をしかめた一瞬の隙を突いて手を伸ばしてきた安室に、あっとコナンは声を上げた。
 気づいたときには隠し持っていたはずの短冊は安室の手の中にあった。
「安室さん、それ返して!」
 見ちゃ駄目と手を伸ばしながらジャンプしてみるが、大人と子ども。はっきりとした身長差がある上に、安室の手に掛かれば子どもを押さえ込むことなど容易かった。
「早く大きくなりたい……」
「ああっ!」
 探索に書いた文章をそのまま読み上げた安室に、コナンはこの世の終わりとでもいうような悲壮感漂う声を上げた。しばらく短冊を凝視していた安室は、声を立てて笑い出す。
「くくくっ。あはははっ!」
「笑うことないんじゃない!?」
 ひどいよと抗議するコナンに、安室は腹を抱えながらもなおも笑う。
「安室さんのバカ!」
「ごめん、コナン君。まさか君が、こんなこと書いているとは思ってなくて」
「だからってひどいよ!」
「本当にごめん。でも、君もやっぱり子どもだったんだね」
「なにそれ!」
 良いから返してと安室の手の内にあった短冊を、コナンはようやく奪い返した。
「コナン君」
「なにっ」
 刺々しい反応に苦笑しながら安室はコナンの頭へと手を伸ばすと、くしゃりと撫でた。
「僕としては君に早く大きくなってほしいけど、子どもは子どもらしく、ゆっくり成長して良いんだよ」
「……安室さん」
「それに、子どもは大人に甘えるべきだ。早く大人になったらつまらないよ?」
「じゃあ、安室さんは短冊になにを書いたか教えて」
 甘えろというならばと、尋ねれば安室はにっこりと笑う。
「それは駄目」
 即答した安室に、コナンは頬を膨らませる。
「ずるいよ!」
 人が短冊に書いた願い事は奪い取ってでも見たというのに、自分が書いた願い事を隠すのは卑怯だとコナンは訴える。
「大人はずるい生き物なんです」
「なにそれ」
 ぽかぽかと足を殴るコナンに、安室は楽しげに声を立てて笑う。
「僕が書いた願い事、そんなに知りたい?」
「知りたい!」
 この際無難な願い事でも構わなかった。半ばやけくそでコナンは安室へと教えてほしいと懇願した。
「赤井絶対殺すって書こうと思ったんだけど」
「えっ」
 思いっきりどん引きしたコナンに気づかない振りをした安室は、残念そうに呟いた。
「流石にそれは、安室透という人間像からかけ離れてるかなって思ってやめた」
 正しい判断に安堵しながらも、そこまで嫌いかと、赤井と安室の確執の根深さを改めて思い知る。かつて組織に身を置いていたという赤井と安室の間になにがあったのかは知らないが、なにが安室をここまで駆り立てるのか非常に興味はあった。
 いっそのこと、なにがあったのかと聞こうとも思ったが、暗く澱んだ目をした安室に、聞くのははばかられた。いまはまだ聞いてはいけないと、そんな気がしたコナンは、それでと明るく尋ねた。
「短冊になんて書いたの?」
 早く教えてと訴えるコナンに、安室の目元が和らぐ。
「来年も、君の隣でこうしていたいって書いたよ」
 なんでもないことのようにあっさりと告げた安室に、一瞬言われた内容の意味を理解できなかった。
 何度か反芻してようやく言葉の意味を理解したコナンは、耳まで真っ赤に染めた。
「な、なっ!」
「コナン君は本当に可愛いね」
 恥ずかしがるコナンに、臆面もなく安室は言い放つ。
 整った顔立ちに、日本人の男性なら気恥ずかしさで言えない台詞でさえ臆面もなく言い放つ安室は、きっと女性に事欠いたことはないだろう。
 二十九歳という年齢に、その立場上女性と関係したことがないと言われても、絶対に信じられない。逆に数え切れない相手と寝てきたと言われた方が信憑性もあった。
 一体どれだけの女性がその腕に抱かれてきたのか。ふとそんなことを考えていたら、胸がむかむかとしてきた。
「コナン君?」
 どうしたんだいと。急に黙り込んでしまったコナンに、人混みに酔ったかいと尋ねながら、額に手を当ててきた安室に、コナンは飛び上がらんばかりに驚いた。
「な、なんでもない!」
「でも」
「ちょっと暑いなって思って」
「まあ、この人混みじゃあね」
 花火の打ち上げまでもう少しということもあって、人混みは減ることはなく、むしろ増していく一方だった。
「じゃあ、かき氷でも食べる?」
 屋台のひとつを指差した安室に、コナンは素直に頷いた。
「何が食べたい?」
「いちご」
「分かった。買ってくるから、コナン君はここで待っててね」
 言って、真っ直ぐかき氷を販売している屋台へと向かう安室の背を、コナンは睨み付けるようにして見送った。
「安室さんのたらしっ」
 どうしてこんなにも胸がドキドキするのか。
 きっと来年も一緒にいたいと言われたせいだと、コナンは結論づける。あんな優しそうな笑顔で来年も一緒にいたいと言われたら、誰だってドキドキしてしまうと。安室の人たらし振りにコナンは少し腹を立てていた。
「はい、どうぞ」
 差し出されたかき氷を受け取りながら、コナンは安室を見上げた。
「お金っ」
 そういえばかき氷代を払っていないと。念のためにと蘭からもらっていた小銭を差し出そうとしたコナンに、安室はぽんぽんと小さな頭を叩いた。
「こう言うときは素直に大人に甘えておくものだよ」
 なにを言っているのか分かったコナンは、むうと頬を膨らませる。
「安室さん、ありがとう」
「どういたしまして」
 拗ねながらもお礼を言うコナンに、安室は小さく笑う。
 いつの間にか空をオレンジ色に染めていた夕日は消えてなくなり、暗くなっていた。
 ひゅるると花火が打ち上がる音に、いつの間にか花火大会が始まる十七時半になっていたようだ。大きな音を立てて夜空に浮かび上がる光の花びらを、コナンは見上げる。
 大輪の花を夜空に咲かせながらも、数秒で消えていくその儚さに寂しく思いながらも、その美しさに魅入る。何度見たって飽きない儚くも美しいその姿に魅入りながら、コナンは同じく夜空を見上げる安室をこっそりと窺う。
 なにをそのうちに思いながら、夜空に浮かび上がる大輪の花を見ているのだろうか。どこか遠くを見つめている安室に、コナンは買ってもらったかき氷を片手で持ち直すと、空いたもう片方の手で安室の手を握りしめた。
「コ、ナン君……?」
「花火、綺麗だね」
「うん、そうだね」
「来年も」
 叶うかどうか分からないけれど。それでも、コナンは口にせずにはいられなかった。
「来年も一緒に、花火を見ようね」
 絶対だよと。言い募るコナンに、安室は頬を綻ばせる。
「うん。来年も一緒に花火を見ようね」
 約束するよと。握っていた手を握りかえしながら、安室はコナンと約束をした。
 買ってもらったかき氷が溶けるのも構わずに、花火が打ち上がるのが終わるまで、コナンは安室とぎゅっと手を繋ぎながら一緒に夜空に浮かぶ大輪の花を見上げていた。