■意地悪な恋人たち




 コナンこと新一が黒ずくめの組織と呼んでいた、闇に潜む巨大組織が壊滅してから一年。
 苛烈を極めた最終決戦では、幹部の半数以上が追いつめられて自殺、あるいは抵抗が激しく最終的に射殺命令が下された。無事捕らえられた生き残りも大半が怪我を負っており、どれほど抵抗が激しかったのかが窺える。
 敵だった黒の組織が半死半生の状態に、味方もまた全てが終わった時には無事とは言い難い状況だった。FBI、CIA、公安と様々な組織が手を組んだ万全な状態だったとはいえ、死者数名、負傷者数十名を出した。とはいえ、それは当初予想していた数よりも圧倒的に下回っていた。
 本来ならもっと被害が出ると、どの組織も予測していた。蓋を開けてみれば死者こそ出たものの、最小限の被害で抑えられた最大の理由は、どの組織にも属していないひとりの少年の影響があった――。






 カランと、グラスの氷が溶けて、音が鳴った。
 何度も目を通したとはいえ、何度読んでも読み飽きないシャーロック・ホームズの一冊へと目を通していた新一は、その音に顔を上げた。
 最終決戦でこの世から抹消される寸前で手に入れたAPTX4869の完全データによって得られた解毒剤で、江戸川コナンから工藤新一へと無事に戻ることができた。その後紆余曲折を経て、どういうわけか赤井秀一と安室透こと降谷零と付き合うことになっていた。
 ふたりに対して好意を抱いていたとはいえ、相手は一回りも年上。その上同性とあっては、どうあってもどうこういう関係になることはないだろうと思っていたのに、気づけばふたりといわゆる恋人関係に落ち着いていた。
 今もってどうしてこうなったのかという疑問が尽きないが、大好きなふたりと一緒にいられるとあって、新一は深く考えることはしなかった。どうせ無駄だと。
 最終決戦での負傷者の中には、赤井と降谷も入っていた。死ぬほどの怪我ではなかったが、軽傷とは言い難い怪我を負ったふたりに、それぞれの組織はそれまでの功績もあって長期休暇を言い渡した。
 表向きは怪我の治療に専念できるように。実際のところ、組織の壊滅に多大な貢献をした江戸川コナンこと工藤新一を自分たちの組織に取り込みたいというそれぞれの思惑があった。半分以上は、そうとでも言わないと怪我が治る前に職場復帰しようとするふたりに無理矢理休みを取らせるためでもあった。
 そういった理由もあって、江戸川コナンから工藤新一に戻るなり、押しかけ女房よろしく、赤井と降谷のふたりは化け物屋敷と名高い工藤家に住み着いた。
 今でこそ怪我も完治し、日中はそれぞれの仕事に出かけるようになったが、夜ともなれば赤井も降谷も工藤家へと帰ってくる日々だ。今日も三人での夕食が終わるなり、酒へと手を伸ばした赤井に付き合うように、降谷もまた飲酒していた。特に会話という会話をすることなく、静かにお酒を飲むふたりの傍で本を読むのが、近頃では新一の日課になっていた。
「どうした、ボウヤ?」
 急に顔を上げたかと思えば、ジッと自分の手元に視線を注ぐ新一の視線に気づいた赤井は、静まり返っていた部屋に声を響かせる。静かに酒を飲んでいた降谷もその声で、どうしたのだと顔を上げた。
「おいしいですか?」
 唐突な質問に、赤井は目を瞬かせる。
「これか?」
 持っていたグラスを掲げれば、新一はこくりと小さく頷いた。
「まずければ飲まないな」
「それってバーボンですよね?」
 赤井が好んで良く飲んでいる銘柄を告げれば、はっきりと分かるぐらいに降谷の顔が歪む。
「赤井、いい加減バーボンを飲むのはやめろ」
「人の嗜好にケチをつけるのはいかがなものかな。それに、君の名前だろう」
「だからですよ! 他のことは我慢しても、貴様がバーボンを飲むことは許していない!!」
「君が我慢したことがあったかな?」
 くつりと笑いながら首を傾げて見せた赤井に、降谷は音を立てて立ち上がった。
「降谷さん。喧嘩するなら俺のいないところでお願いします」
 一触即発の雰囲気を打ち破るかのように、冷ややかな声で新一が割って入れば、目に見えるほどはっきりと降谷は落ち込んだ。
「新一君、ごめん」
 大人しく座り直した降谷に、新一は赤井へと視線を移した。
「赤井さんもですよ。挑発行為はやめてください」
「先に喧嘩を売ってきたのは――」
「赤井さん」
 めっと叱りつける新一に、赤井は渋々とすまなかったと謝罪する。最早慣れてしまった一連の流れに軽くため息をつきながら、新一は逸れてしまった話を戻した。
「バーボンですけど」
「ああ。飲みたいのか?」
 なんとなく話が見えてきた赤井が尋ねれば、新一はぱっと笑顔を浮かべる。
「一口飲ませてください!」
「駄目だ」
 にべもなく拒否した赤井に、新一は頬を膨らませる。対して降谷は、当然だというように頷いた。
「駄目だよ、新一君。お酒は二十歳になってからだ」
「一口ぐらい良いでしょう」
 唇を尖らせながら不満をあらわにする新一に、降谷はにっこりと笑う。
「警察官の目の前で、君はなにを言っているのかな?」
 公安警察とはいえ、立派な警察官だ。未成年の飲酒を見逃せるはずもない。
 なにより新一は、薬の影響で体が小さくなるという体験をしていた身だ。なにがその身を害するとも分からない。あらゆる検査の結果、今のところ命を脅かす問題はないという診断は下っているが、恋人である大人ふたりの心配は尽きない。
「新一君!?」
 パッと座っていたソファーから急に立ち上がったかと思えば赤井が座るソファーへと新一は駆け寄った。
「ねえ、赤井さん。一口だけ!」
「駄目だと言っているだろう」
 ソファーに座っている赤井の膝に乗り上げながら、新一は小首を傾げる。一瞬揺らぎそうになりながらも、理性を総動員した赤井はきっぱりと拒否した。
「ケチ」
「生意気なことを言うのはこの口か」
 仕方のないボウヤだと。赤井は新一の後頭部へと片手を伸ばすと、引き寄せるようにして顔を近づけた。降谷があっと声を上げたときには、赤井は新一の唇を塞ぐように口づけていた。
「赤井、貴様!」
 慌てて立ち上がった降谷は、離れろと赤井から引き剥がすかのように新一を抱き寄せた。
「恋人なら当たり前の行為だろう。それに、キスまでなら良いと話し合ったはずだぞ?」
 赤井と降谷が新一と恋人関係に落ち着いた後、真っ先に話し合ったのがどこまで手を出して良いかだった。現役高校生の新一に対して、赤井も降谷も一回り年上だ。その上FBIと公安という立場上、未成年に手を出すのは憚れた。
 三人で話し合った結果、新一が高校を卒業するまではお互いに手を出さないという結論に至った。ただし新一の強い要望もあって、キスまでは許されていた。
 反論できない状況に、降谷は悔しげに顔を歪める。
「それで、どうだった?」
「苦かったです」
 いつもは甘い口づけは、今日に限ってはひどく苦かったと。顔を歪める新一に、赤井は口元に笑みを浮かべる。
「ボウヤにはまだ早かったようだな」
 むうと新一は頬を再び膨らませる。
「子ども扱いしないでください!」
 立場上、現役高校生に手を出せないのは分かっているが、それ以前に恋人なのだ。子ども扱いされたくないと拗ねる新一にならばと降谷が動いた。
 抱き寄せたまま腕に抱いていた恋人の体を無理矢理反転させた降谷は、顎に指をかけて上向かせると、強引に口づけた。あっという間の出来事に目を見開いた新一は、押し入ってきた舌にギュッと目を閉じる。
「や……っ!」
 くちゅりと音を立てながら口腔を暴れ回る降谷の舌に、新一は早々に音を上げた。自分ひとりで立っていられず膝から崩れ倒れそうになれば、しっかりと抱き留められて、角度を変えてさらに深く口づけられた。
「ほら、鼻で息をして」
 前にも教えただろうと。唇か離れたかと思えば、くすりと耳元で甘く囁かれる。
 息つく暇もなく再び降谷に口づけられた新一は、懸命に教えられたように鼻で息をしようとするが、口腔を蹂躙する舌に上手くできなかった。されるがままに抵抗らしき抵抗もできないまま、ぐったりと降谷に寄りかかった新一は、いやいやするように小さく首を横に振る。黙って様子を見ていた赤井は、そんな新一にようやくストップをかけた。
「降谷君、そこまでだ」
 赤井の言うことを聞くのは業腹だったが、流石にこれ以上は自分も危ないと大人しく降谷が唇を離せば、透明な糸が引く。すぐに切れてしまったが、新鮮な空気を求めるように大きく口を開いていた新一の唇の端から、呑み込めなかった唾液がこぼれ落ちる。それを指で拭ってやりながら、降谷は肩で息をしながら懸命に呼吸を整えている新一の顔を覗き込んだ。
 濡れた瞳に、真っ赤に染まった目元に、降谷は年甲斐もなくごくりと息を呑み込む。そのまま押し倒したい衝動を、懸命に集めた理性でなんとか押しとどめた。
「あまり大人を煽らないことだ、ボウヤ」
 余裕な態度でたしなめる赤井を、新一は真っ赤になった目で睨み付けるが効果は全くなかった。
「どうせすぐにでも俺たちにおいしく食べられるんだ。それまで大人しくしていろ」
「そうだよ、新一君。高校を卒業したら、我慢はしないよ」
 獰猛に笑う赤井と耳元で甘く囁く降谷に、来たるべく日のことを想像してしまった新一は耳まで真っ赤に染め上げた。