■無自覚な両片思い
何十回、もしかしたら何百回と通い慣れた道を今日も歩きながら、子どもの体だと少々重たい扉を体全体を使ってコナンは押し開いた。
「いらっしゃいま――。コナン君!」
カランコロンと。来客を知らせる鐘の音に愛想笑いを浮かべながら振り返った店員は、訪れた客がポアロの上に住んでいる毛利小五郎の家に居候している子どもだと気づくなり、花も綻ぶ満面の笑みを浮かべる。これが女性客ならば、今頃は顔を真っ赤に染めていたことだろうが、生憎とコナンは男。安室の笑顔はなんの効力もなかった。
これで本当に29歳なのかと。時に疑いたくなるほどの童顔の安室の大歓迎振りにたじろぎながらも、コナンは愛想笑いを浮かべる。
「こんにちは、安室さん」
「こんにちは、コナン君。今日はひとりかい?」
普段は蘭か小五郎、もしくはふたりと一緒に姿を見せることの多いコナンの背後に誰もいないことに安室は小首を傾げる。
「うん。蘭姉ちゃんは部活に行ってて、毛利のおじさんは朝から競馬に行ってるから、今日は僕ひとりなんだ」
「朝からずっとひとりでお留守番してたのかい?」
軽く目を瞠る安室に、驚くことかとコナンは不思議がる。
「お昼はポアロで食べてってお金をもらってたし、僕もうひとりでお留守番できるよ?」
見た目こそ小学校1年生の子どもではあるが、中身は歴とした高校1年生だ。ひとりが寂しいと訴えるような子どもではなく、留守番ぐらい平気でできる。むしろうるさい蘭と小五郎がいないとあって、午前中はひとりゆったりと読書を楽しんでいたぐらいだ。
部活で蘭が出かけている間、競馬やパチンコ、ギャンブルで――たまに仕事の時もあるが――小五郎が日中家を空けることは別段珍しいことではない。実際、安室がポアロでバイトするようになる前から、何度となくひとりで留守番をさせられていた。
「お昼って、もう2時過ぎてるよ?」
店内の時計の針はすでに14時を軽く越していた。休日の昼過ぎとあって店内にはまだ多くの人が残っているが、誰もがゆったりとくつろいでいる。ピーク時を過ぎたこともあって、普段は忙しく動き回っている安室もこうしてコナンとおしゃべりできるぎらいには、時間のゆとりがあった。
「ちょっと本に夢中になっちゃって……」
口籠もりながらお昼を食べ損なった理由を告白すれば、呆れたと言わんばかりに安室はため息を吐いた。
「蘭さんが君は集中すると他の物事に目がいかなくなると嘆いていたけれど、まさかここまでとは。まだまだ成長途中の体なんだ。ご飯はしっかり食べないと、大きくなれないよ?」
いえ、十二分に成長しました――。とは、口が裂けても言えない。
苦笑いしながら大人しく頷けば、不満そうにしながらもひとまずは引き下がってくれた安室にコナンはこっそりとため息をつく。
二重に被っていた正体を知ってしまってからこっち――東都水族館の一件からは特に、安室の過保護振りが増した気がする。以前から面倒見がいい人だとは思っていたが、同年代の子どもに比べると小食なことを心配されたり、事件に巻き込まれた軽い怪我を負った時などは慌てて手当てしようとするなど、なぜか保護者振りがパワーアップしている。それでいて事件の時には大いに協力してくれるのだから謎だ。
バーボンとしての恐ろしいあの目で見つめられることはなくなったが、代わりとでもいうように過剰なまでに笑顔を向けられるようになった気がする。捜査に協力してくれたときなどは、あるはずのない尻尾の幻覚さえ見えてしまったこともある。一体安室はどうしてしまったのか。それとも幻覚が見えるようになったおかしい薬でもいつの間にか呑んでしまったか――。体が小さくなってしまう猛毒こそ呑んでしまったが、あれは幻覚は見せないはずと、コナンは表情にこそ出さなかったかぐるぐると考え込む。
ここに灰原がいれば、相変わらず鈍感ねと冷たい一言が返ってきたのだろうが、生憎と彼女はここにはいなかった。
「コナン君、何が食べたい?」
「うーん、サンドイッチかな」
午前中は結局、本を読むだけで終わってしまった。多少頭の疲れはあるが、体を動かさなかったこともあってか、お腹はそこまで空いていなかった。
「君は……」
仕方がないというように安室がため息をつく理由が分からず、コナンは少しむっとする。それに気づいた安室は苦笑する。
「コナン君、僕はついさっきご飯はしっかり食べないと大きくなれないよって言ったばかりだよ。なのにどうしてサンドイッチかな」
きょとりと目を瞬かせたコナンは、安室がため息をついた理由に思い至り視線をさまよわせる。
サンドイッチといえば、どちらかといえば軽食だ。しっかり食べないとと言われたあとで選ぶものではない。だからと言われても、他のものを食べられるほどにコナンはお腹が空いていなかった。
「安室さんが作ってくれたサンドイッチ、おいしいよ?」
「ありがとう。でも、僕はそれよりも君にもっと食べてほしいな」
ジッと見つめられたコナンは、音を上げるしかなかった。
「あまりお腹空いてないから、その……」
「なら仕方がないか。でも、もっとしっかり食べるんだよ」
「はーい」
「飲み物はアイスコーヒーで良かったかな?」
「うん!」
大きく首を縦に振りながら頷けば、ふっと安室は顔をほころばせた。
「好きなところに座ってて」
受けたオーダーを作成するべくキッチンに入った安室を見送ったコナンは、ぐるりと店内を見渡す。混雑というほどでもなかったがほどほどに埋まった店内は、めぼしい席はほとんど埋まっていた。さて、どうしようかと悩んだコナンは、カウンター席へとよじ登るように座った。
「あらコナン君、いらっしゃい」
にっこりと。今まで接客で席を外していたポアロで紅一点のバイトである梓の笑顔につられるように、コナンも笑顔を返す。
「こんにちは、梓姉ちゃん」
「こんにちは。もしかして今からお昼?」
すでに慣れた梓は、いたずらっ子を見つけたような笑みを浮かべる。
「うん」
「駄目よ、コナン君。子どもはしっかりご飯食べないと!」
「それ、さっき安室さんにも言われた」
「言われちゃったかあ。なら、しっかり食べないと。何を作ってもらってるの?」
「サンドイッチ」
眉を寄せる梓に、コナンは慌てて言い募る。
「お腹空いていないだけだから!」
安室といい梓といい、人にこうまで食べさせたがるのか。人より多少小食の自覚はあるが、工藤新一だった頃はここまで周囲に言われることはなかった気がする。
「ちゃんと食べなきゃ駄目よ、コナン君。それでなくてもコナン君、小さいのに良くあちこち怪我ばっかりするんだから」
心配でしょうがないと訴える梓に、首をすくめながらもコナンは多少なりとも反省する。
小さいことはどうしようもないが、言われてみれば事件に巻き込まれて怪我をする回数は工藤新一だった頃の比ではない。小さな子どもが頻繁に事件に巻き込まれては、怪我を負うとなれば周囲の大人たちが心配するのは当然のことだ。自分だってもしそんな子どもが周囲にいたら心配する。自分の行動を多少棚に上げながらも、周囲の大人たちの心配は過剰ではなく当然のものだと受け入れるしかなかった。非常に鬱陶しくはあるが。
「はい、コナン君。先にアイスコーヒー」
コースターと一緒にカウンターへと置かれたアイスコーヒーが入ったグラスに、コナンは淹れてくれた安室へとにっこりと笑う。
「ありがとう、安室さん」
「どういたしまして。梓さん、コナン君と何を話していたんですか?」
「安室さんと同じことです」
それだけで全てを理解した安室は、なるほどと頷くと苦笑する。
「ちゃんと食べなきゃだね、コナン君」
からかい混じりに言う安室に、コナンは頬を膨らませる。それにくすくすと笑い声をこぼしながら、再びキッチンへと戻っていった安室は、慣れた手つきで今度はサンドイッチを作る準備を始めた。何となく視線で追っていたコナンは隣に立ったまま動かずにいる梓に気づいて、顔を上げる。
「梓姉ちゃん?」
どうしたのと。尋ねるコナンに、梓はどこか慌てたように居住まいを正した。
「あのね、コナン君」
内緒話をするかのようにぐっと顔を近づけた梓は、安室に聞かれないようになのか小さな声で話す。
「なに?」
「安室さんって、いつもあんな感じ?」
「あんなって?」
「デロデロに甘いというか、笑顔を惜しまないというか……」
デロデロに甘いというのがどんなものかは分からないが、確かに笑顔に関しては大盤振る舞いされている気がする。
「よく分からないけど、近頃はあんな感じかな」
「……どんなに女性客に言い寄られてもあしらってたけど、もしかして安室さんって幼児趣味」
青ざめる梓に、コナンは慌てる。
「梓姉ちゃん、何言ってるの!?」
「コナン君かわいいから」
「梓姉ちゃん、しっかり! 安室さん、そんなんじゃないから!!」
変な誤解をされてしまえば、安室透として動きづらくなる。梓の誤解を解かなければと、コナンは必死だった。
「でもコナン君……」
「前に少しだけ安室さんが悩んでいたことがあって、僕がなんとなく言ったことが解決に繋がったみたいで。それから少し僕に対して優しくなったけど、安室さんは幼児趣味なんかじゃないから!!」
「…………それって本当?」
「嘘をついてどうするのさ。それに、あの安室さんが幼児趣味なわけないじゃない。変な誤解をされたままじゃ安室さんがかわいそうだよ」
「そう、そうよね」
うんとひとり頷いた梓は笑顔を取り戻す。
「ごめんね、コナン君。変なこと言って」
「ううん。でも梓さん、暴走もほどほどにね」
ちょっとだけ疲れた。主に精神面で。
「コナン君」
今度は何だと、コナンは思わず身構える。
「安室さんが悩んでいたことってなに?」
興味津々で尋ねる梓に、コナンはこぼれそうになったため息をぐっと堪えた。
「気になるのは分かるけど、駄目だよ、梓姉ちゃん」
「そうだよね」
小さな子どもに叱られて、梓はしょんぼりと落ち込む。
「コナン君、お待たせ。あれ、梓さん、どうかしました?」
できあがったばかりのサンドイッチをコナンへと差し出しながら、先ほどとほとんど位置が変わっていない梓に何かあったのかと安室は尋ねる。
「いいえ、なんでもありません!」
タイミング良く客から声を掛けられた梓は、慌てて駆け出す。その後ろ姿を見送った安室がコナンへと視線を落とせば、丁度いただきますとよい子の挨拶をしてからぱくりとサンドイッチにかぶりつくところだった。視線に気づいたコナンは小さな口で一生懸命サンドイッチを食べながら、どうかしたのかと小首を傾げる。
「梓さんと何を話してたのかな?」
ごくりと食べていたサンドイッチを呑み込んだコナンは、少しだけ迷った振りをした。
「内緒」
にっこりと。笑いながら何も話さないよというコナンに、安室は問いただすことを即座に諦めた。この子どもが誰よりも口が堅いことは誰よりも身を持って知っていた。話さないと決めたなら、絶対に話してはくれないだろう。
「君は嘘つきだけど、内緒事も多そうだね」
「それは安室さんもでしょう?」
僕だけじゃないと返したコナンに、安室はひっそりと笑う。
「君ほどじゃないさ。なにせ僕の秘密はことごとく君に暴かれてしまったからね」
肩をすくめながら安室は言う。秘密を暴かれたというのに、その顔はどこかすっきりとしていた。
「えっと、ごめんなさい?」
「謝らなくても良いよ。僕が未熟だけだっただけの話だ。まあ、そんなことを言っているわけにもいかないんだけどね」
一度足をすくわれただけで命を落としかねないほどに危険な組織に身を置いている身だ。少しの油断が身を滅ぼすことになりかねない。けれどコナンに正体が知られたことは、ある意味好機とも言えた。
「おいしい?」
小さな口で一生懸命食べているコナンに、安室は穏やかに尋ねる。
「うん。おいしいよ」
「良かった」
穏やかに微笑むその笑みに、どうしてか目が離せなかった。惹かれるように見つめていれば、苦笑した安室が手を伸ばしてくる。ドキドキとしながらその手を目で追えば、その手は頬に伸びてきた。
「ついてるよ」
頬についていたパンくずを取ってくれたかと思えば、何のためらいもなくそれを食べてしまった安室になんとも言えない恥ずかしさが急激にこみ上げてくる。
「あ、安室さん!」
「なに?」
「なにって!」
恥ずかしいと思う自分がおかしいのか。そもそも子ども相手とはいえ、赤の他人のほっぺにくっついていた食べかすを食べてしまうのはいかがなものか。言いたいことは山ほどあったが、どれも言葉にならなかった。
「コナン君は可愛いね」
甘やかな笑顔でさらりと告げられた言葉に、どうしてか頬が火照る。赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、安室から顔を背けたコナンはアイスコーヒーに挿してあるストローへと口を付けた。
「ああ、そうだ」
何かを思い出した様子の安室に、コナンはちらりと視線だけを向ける。
「試作品のレモンパイを食べてみない?」
「レモンパイ?」
視線だけではなく、体ごとコナンは安室へと向き直る。
「店長と相談して、もう少しデザートを増やすことになったんだけど、その内のひとつにレモンパイがあって。さっき試作品のレモンパイが焼き上がったんだけど、食べてみない? できれば感想を聞かせて欲しいな」
少し迷ったが、コナンはこくりと頷いた。料理上手な安室が作ったレモンパイだ。試作品とはいえ、まずいとは思えない。何より好物のレモンパイを食べないという選択肢がコナンにはなかった。
サンドイッチを食べ終わったタイミングということもあって、試作品だというレモンパイはすぐにコナンの目の前に差し出された。見た目は全く問題はない。むしろ食欲を誘う色合いと匂いに、サンドイッチを食べたばかりだというのに口の中がよだれだらけになった。
怖ず怖ずと食べてみれば、さくりとパイ生地が口の中で崩れ、ほどよい酸味と甘みが口いっぱいに広がった。目をまん丸に広げたコナンは、ぎゅうっと目を閉じた。
「コナン君……?」
どうかなと不安そうに尋ねる安室に、コナンはぱあと目を輝かせる。
「おいしいよ、安室さん!」
「そう?」
「うん、これならお店に出せるよ」
本当においしいと2口目を口にしたコナンに、安室はほっと息を吐き出す。
「良かった。喜んでもらえて」
「お店に出るようになったら、絶対に食べに来るね!」
にこにことおいしそうにレモンパイに齧り付くコナンを、安室はにこにこと眺めていた。
「安室さんの嘘つき」
客の足がタイミングよく途絶えた夕刻。がらんとしたポアロで束の間の休息だと休んでいれば、カウンター席に座って頬杖をついていた梓は突拍子もなく言い放った。
「梓さん?」
目を瞬かせる安室を、梓はじろりと睨み付ける。
「レモンパイ、試作品じゃありませんよね。そもそもデザートを増やす相談なんて聞いてませんよ」
ばれていたのかと肩をすくめた安室は苦笑する。
そもそも店長とデザートを増やす相談はしていなかった。元々レモンパイは試作品ではなく、コナンへと差し入れるつもりで自宅で作ったものだ。差し入れするまでの間、ポアロの冷蔵庫を借りていたこともあって試作品だと思わず嘘をついてしまった。
同じバイト仲間である梓が気づかないはずがない。黙っていてくれていたことに感謝しつつも、問題はこれからのことだった。
「どうしようか」
「どうしようかじゃありませんよ。コナン君、絶対あれ、期待してますよ」
「商品化にはならなかったと言っておけば……」
「コナン君、がっがりすると思いますよ」
そうだよなあと、安室は頭を悩ませる。
「うん。決めた」
「安室さん?」
「店長と相談して、デザートを増やしてもらおう」
それで問題は全て解決だと。満面の笑顔を浮かべながらあっさりと言ってのけた安室に、梓はため息をつく。
「安室さんって本当、コナン君に甘いですね」
「うん。そうだね。なんたって彼は、僕の救世主だから」
何の臆面もなくあっさりと言いのけた安室に、梓はすぐにはその言葉の意味を理解できなかった。
「救世主、ですか……?」
「うん」
「……深くは聞いておかないことにします。でも、流石に小学生に手を出しちゃ駄目ですよ。犯罪です」
「何言ってるんですか、梓さん」
冗談だと受け止めた安室は、楽しげに笑う。それを梓はひどく複雑そうに見ていた。
「無自覚ってこわい」
ぼそりとこぼれた呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。