烙印の証 プロローグ
トレーニングルームで、ひとり黙々とソランは走っていた。生きることを拒否していた三ヶ月で落ちた体力と筋力を取り戻そうと、ただ黙々と走るソランの躰はすでに悲鳴を上げていた。それでもひたすらにソランは走り続ける。
一日でも早く――。こみ上げてくる後悔に、ぎゅっと目を閉じながら走っていれば、トレーニングルームの扉が音もなく開いた。
「――ソラン、今日はこれで終わりにしましょう」
制止の声をかけたカーティス・ランドルに、ソランは渋々とランニングマシンを停止させる。以前、担当スタッフとしてソランの体調やトレーニングの管理をしているカーティスの制止の声を無視して走り続けた結果、しばらく訓練の禁止を言い渡された。
ガンダムマイスター候補生が無茶をして使い物にならなくなるのを防ぐため、担当スタッフには担当する候補生の訓練を禁止させる権利がある。それを過去に行使したことのあるカーティスに逆らえば、再びその権利を発動される恐れがあった。
たった数日とはいえ訓練を禁止されれば、復帰がまた遠のく。一日でも早く復帰したかったソランは、カーティスの言葉に逆らわない。
肩で息をしながらランニングマシンから降りたソランは、近くに置いておいたタオルへと手を伸ばそうとすれば、それより先に別の手がタオルをつかんだ。
「どうぞ」
両手で差し出されたタオルを無言で受け取り、ソランはまとわりつく汗を拭う。滴り落ちる汗を拭い終われば、今度はドリンクを差し出される。それもまた無言で受け取ったソランは、渇きを覚える喉を潤した。
「焦る気持ちは分かります。ですが、無茶だけはやめて下さい、ソラン」
その言葉に、ソランはぐっと唇を噛む。ヴェーダによってガンダムマイスターに選ばれてからすでに半年。本来ならば今頃はもう、ガンダムマイスターとしてソレスタルビーイングの本隊と合流しなければならなかった。それなのにソランはいまだに施設――プリンスダムにいた。
半年前に起こったプリンスダムを騒然とさせた事件――。それによってソランは大切だったものを失い、それまで唯一心のよりどころとしていたものさえも捨てようとした。
胸に残る苦い思い。後悔したところですべてが遅く、何より事件の原因となった罪は決して消えない。永遠に刻まれた罪の証を背負いながら、どうしてと、誰ともなく訊ねそうになる。
「時間はまだあります。ことを焦っても、良い結果は生まれませんよ」
「俺の合流が遅れれば遅れるほど、計画の流れにも支障をきたす恐れがあるんじゃないのか?」
「それは否定しません。けれど、あなたがまた壊れるようなことがあれば、それこそ計画に支障をきたし、我々が困ることになります」
「それは……っ!」
言い返す言葉が見つからないソランは押し黙ると、顔を背けた。
事件から三ヶ月。カーティスの言葉を借りるなら、確かにあのときの自分は壊れていた。生きることをただひたすら拒否して、満足に食事を取ることもしなかった。きちんと食事が取れるようになるまで、点滴でなんとか命を繋いでいたようなものだ。
生きているのに、死んでいたような三ヶ月間。それはまさに壊れていたとしか言いようがなく、同じことを決して繰り返さないとソランは断言することはできなかった。
今でも思い出すたび、後悔しかない。苦しくて、苦しくて、泣き叫びたいのに、それもできない。ただただ苦しさに耐える日々。
「ソラン、いまだにガンダムは完成していません。ですから焦る必要はないんです。分かりますね?」
計画の要とも言えるガンダムは、いまだに完成とはほど遠い。いくら急いで合流を果たしたところで、肝心のガンダムがなければイオリア計画を実行に移すことは難しく、計画の始動はあり得ない。ソランもまたそのことを頭では分かっていても、感情がついていかなかった。
「……分かっている」
「いいえ、分かっていません。それに、あれはあなただけの責任ではありません。ですから、どうかこれ以上自分自身を追いつめないで下さい」
「違う、カーティス。あれは、俺の責任だ。俺の罪が引き起こしたものだ」
「ソラン……」
全ては己の罪。どうして忘れてしまったのだろう。覚えていたところで、迎える結末は変わらないとしても――。どうしてと、誰ともなく訊ねてしまいそうになる。失ったものの大きさゆえに。
「ソラン、今からでも遅くはありません。やはり、あなたも――」
「カーティス」
続く言葉を遮ったソランは、静かにかぶりを振った。それだけは嫌だと。
「もう二度と同じことを繰り返したくはないんだ。どんなに辛くても、この罪は俺が永遠に背負っていかなければならないものだから」
記憶を失えば、また同じことが繰り返されるかもしれない。何も知らずに出会い、恋をした結果があの事件だ。ヴェーダによって相手は全て忘れ去ってしまったけれど、だからこそ自分は忘れてはいけない。全ての罪を、罪の深さを忘れることは最早赦されない。
「この歪んだ世界を正す。その役目を放棄しないためにも、俺にはこの記憶が必要なんだ」
「以前にも言いましたが、これから先その決断を後悔する日が訪れるかもしれません。それでもあなたは……」
「後悔なら、すでにたくさんした。だからもう、同じ後悔をしたくはないんだ」
揺らぐことのないソランの覚悟に、カーティスが先に音を上げた。
「分かりました。もう二度とこの件について私は口出ししません」
話は終わったと、ソランはカーティスの横を通り過ぎる。トレーニングルームを出ようとしたソランの背中へと、カーティスは静かに声を掛けた。
「ソラン」
立ち止まったソランは、その場に立ちつくす。振り返らないソランに、その背中へとカーティスは言葉を向けた。
「すみませんでした」
謝罪の言葉。それが何を意味するのか分からなかったが、深く追求することなくソランは再び歩き出した。トレーニングルームを出て行ったソランに、カーティスひとりだけが残される。
「あれは、あなたの責任ではないんです、ソラン。あれは、本当は……」
ぽつりとこぼれた呟きを耳にした人は、誰もいなかった。
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